Happy Women's Map 山形県天童市 日本初のレコード歌手 佐藤 千夜子 女史 /Japan's First Recording Singer, Ms. Chiyako Sato
「いとし前髪 李(すもも)の花よ せめて初恋また一と目 汲めよカルピス 命の泉 春はみなぎる 血はたぎる」
"My sweet bangs, plum blossoms, at least take in your first love again, Calpis, the spring of life, spring is overflowing, blood is overflowing."
佐藤 千夜子 (本名 佐藤千代)女史
Ms.Chiyako Sato / Chiyo Sato
1897 - 1968
山形県東村山郡天童村(現:天童市)生誕
Born in Tendo-city, Yamagata-ken
佐藤千夜子(本名 佐藤千代)女史は、日本初のレコード歌手第1号。レコード第1号『波浮の港』『鶯の夢』、映画主題歌第1号『東京行進曲』コマーシャルソング第1号は『初恋小唄』、地方小唄第1号『須坂小唄』『三朝小唄』。
Ms. Chiyako Sato (Chiyo Sato) is Japan's first recording singer. She recorded the first Japanese record hits, "Nami Ura no Minato" and "Uguisu no Yume", the first movie theme song "Tokyo March", the first commercial song "Hatsukoi song", and the first regional folk songs "Suzaka song" and "Misasa song".
「歌行脚」
千代は、天童屈指の問屋を営む父・吉三郎、母・マツの長女として生まれます。母親の影響で4歳の頃から天童教会の日曜学校に通って、キリスト教と讃美歌の感化を受けて育ちます。天童小学校高等科を卒業後すると上京、英語の通弁士(通訳)になるため普連土女学校(普連土学園の前身)に入学。すぐに歌や音楽の勉強をする機会を求めて青山学院に編入します。オペラを鑑賞した千代は、音楽教師の個人指導を受けて音楽の勉強を続け、4年目に念願の東京音楽学校(東京芸術大学の前身)に入学を果たします。しかし、授業は物足りなく、東京の中央会堂教会に出入りして聖歌隊員となります。讃美歌を独唱する千代は、売り出し中の作曲家・中山晋平に見出されます。詩人の野口雨情を加えて新しい歌を宣伝して周る「全国歌の旅」に参加します。全国各地で「新民謡・新童話コンサート」を開催します。「こがね虫は金持ちだ」「かねぐらたてた くらたてた」千夜子の歌をみんなが追掛けます。「俺は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」みんなが千夜子の東北なまりの歌声と親しみやすいメロディーに熱心に耳を傾けます。
「小唄ブーム」
ラジオ放送が開始されると、千代は29歳のときに、NHK愛宕山放送局から中山晋平作品集をラジオを通して歌います。佐藤千夜子の芸名で、日本ビクターから『波浮の港』『鷲の夢』でレコードデビュー。「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ 夕焼け小焼け 明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら」「梅の小枝で 梅の小枝で 鶯は雪の降る夜の夢をみた 野にも山にも雪ばかりサラ サーラと雪ばかり」レコード第1号は飛ぶように売れて15万枚の大ヒット。翌年、菊池寛原作の小説『東京行進曲』が日活で映画化され、主題歌を千代子が歌います。「昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ ジャズで踊ってリキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨」映画主題歌第1号は25万枚を売り上げ、「歌謡曲」というジャンルを確立。次々とヒット曲を発売、全国の老若男女が千夜子の歌声を真似て口ずさみます。続いて、病薬イメージから脱却したいカルピスの社長・三浦海雲に依頼されコマーシャルソング『初恋小唄』(北原白秋作詞)を日比谷公会堂で歌唱。「いとし前髪 李(すもも)の花よ せめて初恋また一と目 汲めよカルピス 命の泉 春はみなぎる 血はたぎる」。「初恋の味カルピス」が大ヒットすると、地方観光の宣伝に『須坂小唄』『三朝小唄』をレコーデイング、地方小唄ブームを起こします。
「古事記オペラ」
日比谷大音楽堂での講演後、楽屋の千夜子を高松宮殿下(宣仁親王)が訪ね、ドイツ語翻訳した古事記のなかの歌謡を歌唱するよう依頼されます。古事記のドイツ語訳事業の目玉、『三諸歌』プロジェクト。雅楽の造詣の深い古い神官の家系の木下祝夫(後の香椎宮)が楽譜とドイツ語訳を担当。千夜子は一世一代の名誉として、声楽の本格的な研鑽の為にイタリアに旅立ちます。現地ではオペラの勉強の一方で、日本の民謡を広めることに尽力。イタリア政府から功績を称えられます。5年後に自信満々で帰国すると、流行歌を控えて『三諸歌』の完成を待ちます。やがて戦争に突入。千代子が南方戦線の慰問をして周る間に、東京大空襲で『ドイツ語訳古事記』『三諸歌』は消失。終戦後は芸能界を離れ、荒廃した東京にオペラと歌曲の花を咲かせようと「音和会」に参加。音楽家仲間たちと無料で慰安発表会を開催してまわります。千夜子の死後7年後にようやく『ドイツ語訳古事記』が完成、さらに20年を経てオペラ『古事記』がドイツで上演されます。
-『天童市史 別巻 下 (文化・生活篇)』天童市史編さん委員会 編1984年
-『あゝ東京行進曲』結城亮一
Share Your Love and Happy Women's Story!
あなたを元気にする女性の逸話をお寄せください!
Share your story of a woman that inspires you!