Happy Women's Map 石川県かほく市 日本女性初の哲学者 高橋 ふみ 女史 / The First Female Philosopher in Japan, Ms. Fumi Takahashi
「意識せぬうちに男性の中に女性の人格への軽蔑また無関心がもぐり込んでいる。女性自身の消極的女性蔑視の醸す害毒は人々の持てるよきものをも窒息させて尚余ある。」
"Unbeknownst, contempt or indifference toward the feminine personality has subtly infiltrated within the male consciousness. The toxic effects stemming from passive denigration of women stifle the inherent goodness that people possess for even more harm to flourish."
高橋 文 女史
Ms. Fumi Takahashi
1901 - 1945
石川県かほく市木津 生誕
Born in Kahoku-city, Ishikawa-ken
高橋 文 女史は日本女性初の哲学者です。戦争による国家主義・民族主義が高まる中、叔父の哲学者・西田幾多郎の影響のもと日本とドイツの相互理解に努めながら、個人の人格レベルでの男女不平等観について研究しました。
Ms. Fumi Takahashi is the first female philosopher in Japan. Amidst the rise of nationalism and militarism due to the war, influenced by her uncle, the philosopher Ikutaro Nishida, she dedicated herself to promoting mutual understanding between Japan and Germany. Simultaneously, she conducted research on gender inequality at the individual level.
「結婚よりも勉強」
ふみは6人きょうだいの真ん中に生まれ、幼いころから「私は木津の学校から金沢の学校に行き、東京の学校へ行き、それから外国の学校に行く」と宣言します。父・由太郎は織物業・羽二重工場を営み村長を務めるなど裕福な名士で、母・すみはやがて急死する夫に代わり女工場主として数十人の女工を束ねます。ふみは良家の娘として地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学。理屈っぽく先生をやり込めては母が呼ばれて𠮟られます。そんなふみを、父母はじめ母の兄で哲学者の西田幾多郎も度々訪れ熱心に理屈に付き合ってくれます。理屈に磨きをかけたふみは、ますますなりふり構わず思ったことは何でもずけずけ言う男勝りぶりで強烈な印象を残しながら、百数十人いた卒業生の中で唯一女子大に進学します。とはいうものの、父親はすでに逝去しており、花嫁修業を求める母をふみは半年かけて説得。「女は結婚しても苦労するし勉強を続けるのもそれ以上に厳しい。同じ苦労をするのなら勉強を続けたい。」と独身を通す決意を貫きます。
「男女の差は教育がつくっている」
ふみは横須賀の姉宅に身を寄せ受験勉強に励み、設立2年目の東京女子大学高等学部へ入学を果たします。ふみははじめ英文学科に所属するも叔父・幾太郎を度々訪ね薫陶を受けると、母校に哲学科を創設させ卒業論文『プラトンのイデアについて』を書きあげます。寄宿舎で得意のココアをご馳走しながら、学友とお菓子・煙草・酒を囲んで数学・哲学談義に熱中します。
さらに25歳のふみは叔父・幾太郎のすすめで、唯一女性に哲学の門戸を開く東北大学法文学部・哲学倫理学科に進学します。ふみは着物の赤い裾がひらひらするだけで怒鳴られながら、研究論文『スピノザにおける個物について』をまとめます。ふみは東北帝国大学を卒業すると宮城県立女子師範学校の嘱託講師を2年間務めるも再び上京。羽仁もと子が創立した自由学園の国語教師として教壇に立ちます。ふみは短く刈り上げた断髪に洋服姿て足を外側に広げてパッパと歩き、ドアをポンと靴で蹴って教室に入ると、男のようにテキパキ話し出し精神の自立を説きます。5年間勤める中で、ふみは男女共学を推進する座談会に熱心に参加します。「女性と男性の精神構造の中に「男尊女卑」という考え方が存在する。」「男女の差は教育がつくっている」
「東西の男女関係(をとこをみなのみち)」
35歳のふみは叔父・幾太郎の伝手で岩波書店の奨学金を獲得、日本を離れドイツへ向かいます。50日の船旅で日本人・アメリカ人・イギリス人・退陣・フランス人・ノルウェー人など様々な人物と議論をします。ふみはベルリンでドイツ人老夫婦の家に下宿、ドイツ語学校を修了して日本人学校で教えたり、ベルリン・オリンピックに記事を寄せながら、お茶会・オペラ・講演会・博物館・書店に足繫く通います。留学生仲間に誘われフルブライクに移ります。ふみは下宿先で同年代のドイツ人家族の暮らしぶりを体験しながら互いの国の文化・親子関係・夫婦関係など議論します。フライブルク大学では倫理・哲学を学びながら、ハイデッガーのゼミに参加、最新の哲学・現象学を見出し実存主義の息吹を吸収します。日本でもドイツでも民族意識・国家意識が高揚する中で、ふみはドイツと日本の文化・習慣の違いからくる個人の行動また感情の落差について、また夫婦の在り方・男女関係のありかたの著しい相違について熱心に研究します。「日本人にとっても恋愛至上でないこともないが、幾世紀にもわたって無我とか捨身とか教えられたきた日本人は、自己一個の感情はどこまでも私とし、場合によっては自己に従って至上なる恋愛をも超えて生きることを学び取った。」
「アメリカの自由主義」
ナチスによるズデーデン併合・ポーランド侵攻と世界情勢が切迫するなか、結核を患ったふみは後ろ髪をひかれるように引き揚げ船で帰国します。3年半の留学生活を終えると、東京の結核診療所に入院しながら、叔父・幾太郎の著書『真善美の合一点』と『形而上學的見地より見た東西古代の文化形態』をドイツ語翻訳します。やがて郷里で療養をはじめると、叔父の『日本文化の問題』のドイツ語訳にとりかかります。「博士」または「生意気」と呼ばれながら、月に1回、グレーまた真っ白なスーツに黒また白の帽子をかぶって出かけ、郷里の子供たちに叔父の著書『日本文化の問題』『人間的証明』を読書会で講義します。一時期小康状態を得たふみは再度上京、母校・東京女子大学で哲学・倫理学の講義を受け持ちます。何ものにも囚われない自由さで、それまで良妻賢母を教えられてきた女学生たちを魅了します。空襲が激化するとともにふみの体調も悪化、担架で郷里に運ばれます。ドイツの敗戦を聞いたふみは「ドイツはもうだめだ。元気になったら一緒にアメリカへ行こう」と家族友人に語り44歳で逝去します。
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