割らないようにねって、
落としても割れないグラスは、落としても割れないという理由で誰もが使うグラス。
落として割れても買い足すことができる、そのことに価値を持つグラス。
長谷部千彩さんのエッセイ集
『メモランダム』より 「バカラ」。
バカラという高いグラスを割る度、
「そういうグラスはさ、普段使うものじゃないんだよ」
と言われる。
恋人の忠告に反し、彼女はグラスを使い続ける。
グラスが割れると悲しいから、彼女は泣く。
そしてバカラの破片に警告を聞く。
「壊れたものはもう元に戻らない。壊さないように努力するしかない。」
「失うことへの恐れや壊れやすいものを慈しむ心を忘れずに。」
私が好きなのはバカラのグラス。
なぜならきらきら光るから。
水の中に浮かぶ氷に似ているから。
そして、ちゃんと割れるから。
Baccaratをご存知でなければ調べてみて欲しい。
職人が技術を習得して、彫刻のように無限な、クリスタルの性質を操れるようになるには、15年間かかると言われています。
Webサイトにはたくさんのガラス製品がきらめく。
壮麗なインテリア、
洗練された家庭の日常に使われそうなグラス、
洒落た婉曲が官能的な、贈答用のワイングラス、
艶っぽく向こうを透かす、クリスタルのビジューアクセサリー。
これらがいとも簡単に割れることを想定すると、それはあまりにも高額でハイリスクなお買い物。
自分のために買うのは、とても怯む。
だけど彼女は、自分のためにこそ買う。バカラを使う幸福を、壊れないように大切に扱う気持ちの備忘を、買う。
そして、彼女は他人の結婚祝いにもそれを贈る。
恋人はまた、「高価なものを贈るのは気持ちの負担を増やすだけだから消耗品にしておけ」と注意する。
しかし彼女は、美しい高価なものを贈りたいのではないのだ。
バカラも人間関係も、傷をつけたり壊したりしたら修復が出来ないと彼女は言う。
そうならないようにするための努力がなされることを、彼女はバカラを通して、新郎新婦に願うのだ。
私たちは、「壊れること」は仕方ないことだと、どこかで分かっている。
そして、いつか壊れるなら最初から使わないでおこうとする。
それはとても正しいような気がしていた。
壊れにくいものは安い。
そして簡単に扱える。
すぐにでも壊れそうなものは、高くて儚くて扱うのが難しい、けど、とても大切で魅力的であることが多い。
後者を扱うことに、真っ向から向き合っている彼女。まず尊敬の念が止まない。
壊れたり壊したりしてしまう、そういった物事にこそ守るべきしあわせが宿っている。その鮮やかな事実から、目を背けないでいるのだ。
正しいとか正しくないとかではなくて、強い、と思う
あまり大きくは関係しないのだが、
彼女がこの章の最後に、バカラを蔑む恋人に呟く「この夏を変える魔法の呪文」も、ピリリと辛くて悪い笑みが浮かぶ。
ぜひ読んでみて欲しい。