小説「夏眠」:サマーハイバネーション その[25]ー姉はただのおばさん⁉︎
姉の帰国が近づくにつれ、葉菜の心は不安と恐怖でいっぱいになり、少しずつ安定していた鬱の症状がぶり返しそうだった。息苦しさが続き、夜も眠れない日が増えた。2週に1度の通院では追いつかず、葉菜は臨時で診察をお願いすることにした。
診察室に入ると、沢村先生はいつもの落ち着いた表情で迎えてくれた。けれども、葉菜は目の前に座ると同時に涙が込み上げ、言葉にならない思いをどう伝えたらいいのか分からず、しばらく口をつぐんでいた。
「葉菜さん、今日はどんな感じですか?」沢村先生の声は穏やかだったが、葉菜の中に溜まっている不安は一気に溢れ出した。
「…姉が帰ってくるんです。もうすぐ日本に…」葉菜は声を絞り出すように言った。
「そのことを考えると、息が苦しくて、胸が押しつぶされそうで…。せっかく少し落ち着いてきてたのに、また戻ってしまいそうなんです」
沢村先生は少し眉をひそめたが、静かに頷いた。「お姉さんが帰国することが、葉菜さんにとって大きな負担なんですね。」
「負担というか…怖いんです。姉が家にいた頃のことを思い出してしまって。頭を叩かれたり、言葉で傷つけられたりした記憶が全部戻ってきて…。それに、姉は自分が正しいって思い込んでいて、何を言っても無駄だったんです。話を聞いてもらえたことなんて、一度もありませんでした」
葉菜は声を震わせながら言葉を紡いだ。沢村先生は少し考え込むように視線を落とした後、ふと顔を上げて言った。
「葉菜さんにとって、お姉さんは怖い存在なんだね。でも、僕にとっては『ただのおばさん』なんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、葉菜の中で感情が爆発した。
「先生にとっては、ただのおばさんかもしれません。でも、私にとっては違うんです!怖い姉なんです!」葉菜の声は少し強くなった。
沢村先生は驚いた様子もなく、少し笑みを浮かべて答えた。「そうだね。確かに、葉菜さんにとっては特別な存在だよね。でも、こういうふうに考えてみたらどうだろう?お姉さんを『ただのおばさん』として見る視点もあるんだって」
「どうやったら、そんな風に見られるんですか?」葉菜は悔しさと不安でいっぱいになりながら問いかけた。「私の中では、姉はずっと怖い存在なんです」
沢村先生は少し背もたれに体を預けながら、静かに言った。「それはね、『第三者的な視点』を少しずつ持つ練習をすることなんだ。僕が『ただのおばさん』と言ったのは、葉菜さんにもその距離感を感じてほしかったからだよ」
「距離感…ですか?」
「うん。葉菜さんが怖いのは、お姉さんとの距離が心の中で近すぎるからかもしれない。でも、実際には葉菜さんとお姉さんはもう別々の人生を歩んでいる。関係を切ることはできなくても、その距離を少し調整することはできるんだ」
葉菜はその言葉に少し考え込んだ。「でも、どうやってその距離を作ればいいのか、分かりません」
沢村先生はペンを手に取り、メモ用紙に何かを書き始めた。「たとえばね、お姉さんとの関わり方にルールを作るのはどうかな?返事をする時間を決めるとか、話す内容をあらかじめ自分で制限するとか。『いつでも話さなきゃいけない』というプレッシャーを減らすことが大切だと思うよ」
「ルールですか…」
「そう。それと、物理的な距離も重要だよ。お姉さんが日本に戻ってくると言っても、葉菜さんがすぐに会う必要はない。会う時期や場所も、葉菜さんが安心できる範囲で決めていいんだ」
沢村先生の言葉は、葉菜にとって少しずつ新しい視点を開いていくようだった。「怖い存在」としてしか見られなかった姉を、少し違う角度から見る可能性を示されているような気がした。
「自分を守るために、距離を取ってもいいんですね」葉菜はポツリと呟いた。
沢村先生は優しく頷いた。「そうだよ。距離を取ること、それは葉菜さんが悪いことをするわけじゃない。むしろ、葉菜さんが自分の心を大切にしている証拠なんだからね」
その言葉に、葉菜の中に小さな安堵の波が広がった。怖さが消えるわけではない。
でも、自分を守る方法を模索することはできる。それが、その日に沢村先生との会話から得た小さな希望だった。
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