小説「夏眠」:サマー•ハイバネーション[5]ー見えない影
朝、目を覚ました瞬間、何かが違うと感じた。外の光はいつもより柔らかく、部屋の空気はいつもより静かだった。昨日の出来事が夢だったのか、それとも現実だったのか、一瞬、判別がつかなくなった。
枕元に手を伸ばすと、あの小さな白い石がまだそこにあった。それを指先で転がしながら、私は昨夜の夢を思い返す。森の中を歩き、風に乗って聞こえるあの優しいささやき。それは現実よりも鮮明で、どこか心の奥に響くものだった。
「大丈夫だよ、すべてはうまくいく。」
その言葉を思い出すと、不思議なことにまた少し安心感が広がっていく。しかし、その安堵の裏側には、まだ消えない不安が潜んでいた。精神科クリニックでの診察が、今後の私にどう影響を及ぼすのか、それが何よりも怖かった。
朝の支度をしていると、林さんからメッセージが届いた。「先輩、今日は大丈夫ですか?お休みするなら遠慮なく言ってくださいね。」その一言に、私は少しほっとした。林さんは本当に気を遣ってくれる優しい人だ。私は「ありがとう、大丈夫」と返事を送り、仕事へ向かう準備を続けた。
会社に着くと、普段通りの忙しさが私を包み込んだ。書類の山、電話の鳴り響く音、人々の動き。そんな中で、私も自分の居場所を取り戻そうと努力した。しかし、心の片隅には、あの総合内科診察室でのドクターの言葉がこびりついて離れない。
「あなたには、少し休息が必要ですね。」
その一言が、私の心に深く刺さっていた。それはまるで、自分が弱いと認めることへの恐怖だったのかもしれない。何もかもが自分でできて当たり前、そんな思い込みに縛られていた自分が、今やその重みに押しつぶされそうになっていることに、ようやく気づいたのだ。
昼休み、私は林さんに誘われて近くのカフェに向かった。窓際の席に座り、暖かいカフェラテを手に取りながら、私はぼんやりと街の景色を眺めていた。外には、早足で行き交う人々や、車の音が響いている。普段なら何気なく見過ごすその風景が、今日は妙に遠く感じられた。
「先輩、少し休んだ方がいいんじゃないですか?」林さんが突然言った。その言葉に、私は少し驚いたが、彼女の真剣な眼差しを見て、何も言い返せなかった。
「そうかもしれないわね…」私は小さくうなずき、カフェラテを一口飲んだ。その温かさが体に染み渡るようで、少しだけ気持ちが和らいだ。
午後の仕事に戻ると、再び日常の喧騒が私を包み込んだ。そんな中で、私は少しずつ自分を取り戻していく感覚があった。だが、それでも心の奥底に潜む不安は、決して消えることはなかった。
その夜、家に帰ると、私は再びあの白い石を手に取った。そして、またあの声が聞こえてくるのを期待していた。だが、今回は何も聞こえなかった。ただ、冷たい石の感触だけが、私の手のひらに残った。
「すべてはうまくいく…」私は自分に言い聞かせるように、その言葉を口にした。だが、その響きは昨日ほど強くなかった。
やがて、私はベッドに潜り込み、再び夢の中へと沈んでいった。夢の中で、私はまた森を歩いていた。木々の間を抜けると、遠くに何かが見えた。それは、昨日とは違う、黒い影だった。
その影は、私の方へとゆっくり近づいてきた。そして、その影が何なのかを知るために、私はその方向へと歩み寄った。
「何かが、私を待っている…」
そう思いながら、恐れながらも私はゆっくりとその影へと手を伸ばしていった。