小説「灰色ポイズン」その35ー母さんと肉うどんと私の願いとわからない未来のもやもやと鼻唄
その夜、カナタは母さんの枕元に肉うどんを運んだ。布団から顔を半分だけ出した母さんは、湯気の立つどんぶりをじっと見つめていた。手を伸ばす気力はなさそうだったけれど、カナタがそっとスプーンを差し出すと、ようやく母さんはゆっくりと受け取った。
「いい匂いだね、ありがとうね、カナタ」
母さんの声は、弱々しいけれど少しだけ温かみが戻っていた。それを聞いたカナタは、胸の奥でじんわりと嬉しさが広がるのを感じた。
「どう?味、大丈夫?」そう聞くと、母さんはゆっくりと一口を口に運び、軽く頷いた。
「うん、美味しいよ。ちゃんと作れたね」
その言葉に、カナタはほっと胸を撫で下ろした。肉うどんの湯気が、冷えた部屋を少しだけ温めているようだった。食べ進める母さんの横顔を見つめながら、カナタはそっとつぶやいた。
「お母さん、明日さ、学校がお昼までなんだ。でさ、
わたしと一緒に少しだけ外に出てみない?日向ぼっことか、気持ちいいと思うよ」
母さんはスプーンを持つ手を止め、ほんの少し考えるようにしていた。そして、少し困ったような微笑みを浮かべて言った。
「外に出るのは、ちょっと難しいかも...。カナタがいてくれるだけで、私は十分だよ」
その言葉に、カナタは少しだけ俯いてしまった。
母さんの気持ちはわかるけれど、それでもいつか母さんがまた元気になって、外の世界と繋がれる日が来ればいいなと願っていた。
翌朝、カナタは学校に向かう準備をしながら、母さんの布団をちらりと見た。母さんはまだ眠っているようだった。昨夜、肉うどんを食べたあと、少しだけ顔色が良くなったように思えたけれど、やはり本調子ではないのがわかる。
学校の準備を終えたカナタは、部屋を出る前にそっと母さんの布団の横にメモを置いた。
「まだお肉があるから肉うどん作るね。学校終わったらすぐ帰るよ。ゆっくりして待っててね」
と書かれたそのメモは、カナタなりの母さんへの励ましだった。
学校では、いつものように先生やクラスメートたちに囲まれる日々が待っていた。
大人びたカナタの振る舞いに、周りの子どもたちは不思議な目を向けることも多かったけれど、元気すぎる男の子たちのイジメのターゲットにもされるけどそれをカナタは気にしないようにしていた。カナタは勉強はイマイチだけど色んなことを知っている。
家庭科の調理の時間で『板摺り』というコトバを知っていたのはカナタ1人だったし、保健委員でもないのに傷の手当てができたり、包帯をきれいに巻けたりとか。
ただ、その日、いつもと違うことがひとつあった。放課後、掃除当番を終えたカナタが靴箱で靴を履き替えていると、担任の先生が声をかけてきたのだ。
「森野さん、少しだけ話していかない?」
突然のことに驚いたカナタは、一瞬だけ躊躇したが、先生の穏やかな表情を見て頷いた。職員室の隅にある小さな椅子に座ると、先生は優しい声で話し始めた。
「最近、どう?学校のこととか、家のこととか…困ってることがあったら、いつでも言ってね」
その言葉に、カナタはどう答えればいいのかわからなかった。困っていることがないわけではない。でも、全てを話してしまうと、母さんのことを誰かに知られるのが怖かった。
困ってることなんてお家のことゼンブだよ。でも言えない。とくに母さんが鬼ババアみたいになって急に怒り出して物を投げつけられたり、
「子どもなんて生まなきゃ良かった」って泣きじゃくったりすることなんて絶対言えない。もし、こんなこと言ったらいつも母さんが言うようにわたしは陣風寮に行かなきゃならなくなるから。母さんいわく養護施設はとってもこわい不自由な所だから、そんなとこには行きたくない...。
だから、結局カナタは「大丈夫です」とだけ答えた。
先生はしばらく考え込むようにしていたが、最後にこう言った。
「何かあったら、無理しないのよ。先生に言ってね。
学校は、森野さんが安心できる場所だから」
その言葉が、どこか胸に響いた。安心できる場所…。家では、母さんのことを心配して過ごし、近所の目にもさらされる。学校だって、本当は自由に振る舞えるわけではない。でも、それでも「ここにいてもいい」と言われたことが、少しだけ救いのように思えた。
家に帰ると、母さんはまだ布団の中だった。
でも、カナタが置いていったメモは枕元に置かれていて、メモの横には「ありがとう」と書かれた小さな紙が添えられていた。それを見たカナタは、胸がポッと温かくなるのを感じた。
夜になり、また、鼻唄混じりにうどんを作りながら、カナタはふと思った。
「いつか、母さんと一緒にご飯とおかずと味噌汁の夕飯を笑いながら食べられる日が来るだろうか?」
その問いの答えはまだわからない。でも、カナタは毎日を少しずつ先に行けると決めていた。なぜだか、何のあてもなかったけれど。時々困りすぎて胸いっぱいにもなるけれど...。
母さんを手伝いながら、近所の声や学校での出来事に翻弄されながらも、いつかきっと母さんが元気になる日を信じてる。
そう自分に言い聞かせながら365歩のマーチを鼻唄をで口ずさんだ。「しあわせは〜歩いてこないーだあから歩いていくんだよ〜♪」