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小説「夏眠」:サマー•ハイバネーション[8]ー初診面接の先生は薮井じゃなかった1

病院の待合室で、海の葉菜は無意識に膝の上で手を握りしめていた。外の風景は夏の陽射しが眩しいほど明るく、木々の緑が窓の向こうで揺れているのが見えた。しかし、その美しさも彼女の心には届かない。心の中は黒い雲に覆われているようで、息をするたびに胸が苦しくなる。

初めての精神科クリニックの予約を入れた日から、彼女の心は揺れ続けていた。診察室のドアが開かれる瞬間まで、彼女は何度もキャンセルしようかと考えた。だが、夢の中で感じた重い疲労感と現実の中で動けなくなる恐怖が、彼女をここに引き戻した。

「海野葉菜さん、どうぞ。」名前が呼ばれ、彼女は深呼吸を一つして立ち上がった。診察室のドアを押し開けると、中には柔らかい光に包まれた部屋が広がっていた。壁には静かに揺れる観葉植物が置かれ、机の上には整理整頓された書類が積まれている。そんな中で、白衣を着た男性がにっこりと微笑んで立っていた。

「こんにちは、はじめまして。私がここの薮井クリニックの院長、沢村正です。」その声は柔らかく、どこか安心感を与える響きを持っていた。葉菜は小さく頭を下げ、椅子に腰掛けた。

「海野葉菜さんですね。坂本ソーシャルワーカーから大体のお話は聞きました。良くここへいらっしゃいましたね。」彼の言葉は、まるで遠くからずっと彼女を見守っていたかのように優しかった。

沢村医師は、葉菜の顔をじっと見つめながら続けた。「現在、何に困っているのか、少しお話していただけますか?」

その問いかけに、葉菜は一瞬、何から話せばいいのか迷った。しかし、沢村医師の静かな眼差しに促され、彼女は少しずつ口を開いた。

「最近、眠りが不安定で、夜中に何度も目が覚めたり、朝起きても疲れが取れないことが続いています。それに、時々体が動かなくなることがあって……仕事にも集中できなくて、何をしているのか分からなくなることがあります。」彼女の声は徐々に震え始めたが、言葉を絞り出すように続けた。

「海外から戻ってきた姉の生活援助をしなければならないと思うと、すごく苦しいんです。母が亡くなったときも、ちゃんと世話ができなかったんじゃないかと後悔していて……それに、上司のパワハラもあって、逃げ場がなくて……。」言葉が詰まると、彼女の目に涙が浮かんできた。

沢村医師は、彼女の話をじっと聞いていた。彼の表情は変わらないが、葉菜には彼が全てを理解しているように感じられた。そして、その無言の理解が、彼女の心に少しずつ安心感をもたらした。

「それは、大変でしたね。」沢村医師の声が再び部屋に響くと、彼は穏やかな笑顔で続けた。「この状況で、今の症状が出るのは自然なことです。まずは、ゆっくりと状況を整理していきましょう。」

葉菜は小さくうなずいたが、心の奥にはまだ不安が渦巻いていた。精神科の治療が、どのように彼女の生活に影響を与えるのか、未知の領域に足を踏み入れることへの恐怖が消えなかった。

「精神科医の私にして欲しいことは何でしょうか?」沢村医師は優しく尋ねた。

葉菜はしばらく考えたが、何を望んでいるのか自分でも分からなかった。ただ、この苦しみから解放されたいという願いだけが頭に浮かんだ。「ただ、少しでも楽になりたいんです。」その言葉が、ようやく口から漏れた。

沢村医師は深くうなずき、彼女に処方箋を手渡した。「しばらく、眠れるようにする薬と抗うつ剤を処方します。これで様子を見ましょう。また1週間後に来てくださいね。」

葉菜はその言葉に、小さな希望を感じた。同時に、その先に待ち受ける未来がどうなるのか、不安も募っていた。

「今は色々と心配なことがたくさんあって、不安でしょうが、一緒に少しずつ進んでいきましょう。」沢村医師の言葉が、静かに彼女の心に響いた。

診察室を出ると、外の光が再び彼女を包み込んだ。先ほどまでの暗い雲が少しだけ晴れた気がした。彼女は深呼吸をし、クリニックのドアをゆっくりと閉めた。新しい一歩を踏み出す瞬間が、そこにあった。

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