小説「灰色ポイズン」-その37-学ぶことについて美菜子先生に話してみた
《由流里病院 精神科病棟 面接室》
カナタは、面接室のソファーに座りながら、指先でセーターの裾をいじっていた。窓の外には冬枯れの木々が並び、曇った空と相まって少し寂しげな景色だった。
「なんだか久しぶりね、カナタさん」
向かいに座った美菜子先生が微笑んだ。かつてのクラスメイト。高校時代の記憶が一瞬よみがえり、カナタは少し恥ずかしそうに目をそらした。
「久しぶり…なんか変な感じ。最近、美菜子パパ先生とばかり面接してたから」
カナタはかすかに笑い、椅子に深く腰を掛け直した。「高校の同級生が今は私の副主治医だなんて」
美菜子先生は、ふふっと軽く笑いながら言った。
「そう思うのも無理ないわよね。でも、今日は副主治医としてじゃなくて、高校時代を知っている人としても話を聞けたらいいなって思ってるの」
「ふーん…」カナタは窓の外を見つめながら、曖昧な相槌を打った。「じゃあ、何から話せばいい?」
「カナタさんが言いたいことからでいいのよ。たとえば、学ぶことについて、って聞いてるけど。」
カナタはしばらく考えた後、少し口を開いた。「私ね、昔から学校で『学ぶ』っていうことが全然ダメだったんです」
美菜子先生は黙って頷きながら、促すように目で合図を送る。
「授業とか、本当に苦痛でさ。先生が黒板に書いたことをノートに写すのが、なんでみんなできるのか分からなかった。私は追いつけなくて、途中で諦めるんだよね。あと、隣のクラスの先生の声とか、時計の針の音とか、どうでもいい音がやたら耳に入ってきて、そればっかり気になっちゃてて」
「カナタさんらしいわね」
美菜子先生は微笑みながら言った。
その笑顔には、かつて同じ教室にいた人間としての親近感がにじんでいるようだった。「でも、周りの先生たちや友達には、きっとそれが分からなかったんじゃないかしら」
「そうだね…。私も分かってなかったし。でも、小学校の時に先生にずっと『静かにしなさい!』って言われ続けててさ。そのせいで、多分頭の中だけが大騒ぎしてたんだと思う。外では静かにしてるんだけど、脳内ではなんか暴走してるみたいな」
カナタは苦笑しながら、自分の話を続けた。
「それでね、それでもなんとか普通の授業についていけるようになるかと思ったけど、中学でも、高校でも、やっぱり無理だった。担任にも呆れられてたみたいで、中学の時なんて、もう完全に無視されてた」
「つらかったでしょうね」
「うーん、つらいっていうより、なんか無力感?『どうせ私には無理だ』って諦めてたの。でも、好きな教科だけは自分なりにやってたんです」
「好きな教科って?」美菜子先生は少し身を乗り出して聞いた。
「美術。でもね、その美術の先生にも『線ってこうやって描くんだよ。線が引けないの?』とか言われて、それですっかりやる気をなくした」
カナタは、呆れるように笑った。「その上勝手に描きかけの絵に断りもなしに手を入れられて修正されたり」
「まあ、今思えば、先生は悪気なかったんだろうけど。
勝手に作品に手を入れるってね。ある意味レイプにも等しいっていうか...」
「そういう何気ない一言って、意外と心に残るのよね。あとレイプと等しい感覚っていうのもわかる」美菜子先生は共感するように頷いた。
「そう。それで、高校を出るまでずっと、『学ぶ』っていう行為が苦手なまま生きてきたのね。でも、大学とか社会に出てから、自分で興味のあることを自由に学べるようになって、やっと気づいたんだ。『学ぶのって、楽しいことなんだ』って」
「どんなことを学んでるの?」
「心理学とか、高等数学とかカウンセリングとか。語学もちょっとやってるし、ピアノも弾けるようになりたくてさ。大人になってから、自分のペースでやるのって、全然違うんだよね」
美菜子先生は、しばらく考え込むように黙った後、言葉を選びながら話し始めた。
「カナタさんが昔、学ぶことが苦手だったのって、多分、環境が合わなかっただけなんだと思う。カナタさんが悪いわけじゃなくてね」
「環境か…」
「そう。だって今、こんなに楽しそうに話してるじゃない?それって、学ぶ楽しさをちゃんと取り戻せた証拠よ」
カナタはしばらく考え込んだ後、小さく頷いた。「そうなのかな。でも、まあ、学ぶって結局自分次第ですね今は、死ぬ一日前まで学び続けたいって思ってる」
美菜子先生は、その言葉を聞いて微笑んだ。
「その1日前」という言い方がカナタさんらしくて好きだなぁ。この世を旅立つ日はゆっくりすると前に聞いてたからそうゆうことでしょう?それなら、学ぶことが苦手だった過去の自分も、もう少し好きになれそうね」
カナタは窓の外を見つめながら頷いた。
そして曇った空に少しだけ微かな光を感じた。
そうだ、昔の私も愛おしい存在かもしれない....。