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「1000年の香りに包まれて」

12月になると恋しくなる場所がある。ロンドンの南、テムズ川を渡った先に広がるバラ・マーケット(Borough Market)だ。
英国最大級の食品マーケットで、2014年にはなんと創設から1000年を迎えた。歴史ある石畳の上に、世界中の美味しいものが集まるこのマーケットは、かのイギリス人シェフのジェイミー・オリヴァーも足繁く通っているという。

週末、友人と待ち合わせる場所もここだった。寒さを言い訳に「喉乾いちゃったし、ちょっと温まりたいね」と笑いながら、真っ先に向かうのはモルドワイン(ホットワイン)の屋台。シナモンやクローブ、オレンジピールの香りが立ち込め、湯気とともに手のひらを温めてくれる。片手にモルドワインを持ちながら、試食巡りを楽しむのが定番だ。

まずはチーズ屋でお気に入りを見つける。小さく切ったパンと一緒に出される濃厚なチーズはどれも絶品だ。特に、コッツウォルズ地方の蜂蜜と合わせるのがお気に入りだった。家ではパンケーキを焼いて、この香り高い蜂蜜をたっぷりかけて贅沢な朝食に。「君は蜂蜜を食べるためにパンケーキを焼いてるんじゃないの?」と当時のパートナーに笑われるほど、惜しみなくかけたあの味が懐かしい。

鮮魚店の前には大きなアンコウが飾られていて、その無骨な姿に怯えて泣く子供たちの姿もよく目にした。そんな日常の一コマすら、このマーケットではどこか絵になるのだから不思議だ。チーズ、ソーセージ、パン、オリーブ、ファッジ…ひとつひとつ試食を重ねながら歩いていると、30分も経てば体も心もほっこりと温まる。

締めは、名物のファラフェルサンドだ。カリッと揚げたひよこ豆のコロッケをぎゅうぎゅうにピタパンに詰め込んだサンドイッチを頬張りながら、隣接する教会へ足を運ぶ。
マーケットの喧騒から一歩離れ、静謐な空間で行われるミサに参加するのも、当時の私たちの「お決まり」だった。少年クワイアの透き通る歌声、歴史あるパイプオルガンの音色…。そんな神聖な空気の中で歌う讃美歌は、まるで心の奥まで洗い流されるようだった。(モルドワインで少し酔っていたのは内緒だ。)

こうして振り返ると、ただの週末のひとときが、どれだけ豊かで幸福な時間だったのかを改めて感じる。
12月の寒い空気に触れるたび、あのマーケットを歩いていた日のことを思い出す。そこには、温かな香りと、心を満たす笑い声があった。

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