小説「夏眠」:サマー・ハイバネーション[8]ー3(別バージョン)初診面接の先生は薮井じゃなかった
クリニックの建物が目に入ったとき、葉菜の心臓は不意に速くなった。小さなビルの中にあるそのクリニックは、一見、普通の医療施設のように見える。しかし、葉菜にはその扉が重たく、開けることにためらいを覚えてしまう。やっと何とか予約を取ったのに、今になって、また不安が押し寄せてくる。
「本当にここに来てよかったのか…?」心の中で何度も繰り返す。踏み出したはずの一歩が、また後ずさりしそうになる。
「ここまで来たんだから…」
そう自分に言い聞かせて、葉菜はクリニックの扉を開けた。中に入ると、受付で優しい笑顔のスタッフが出迎えてくれた。「ご予約の方ですね、どうぞこちらへ」と案内され、葉菜はふわりと香るコーヒーの匂いとともに、待合室へと足を運んだ。周囲は静かで、他の患者もほとんどいない。淡いベージュの壁紙と、木のぬくもりを感じる椅子。心が少し落ち着く。
しばらくして、名前を呼ばれた葉菜は、内心の緊張を抱えながら診察室に入った。ドアの向こうには、柔らかな目元の医師が座っていた。白衣に身を包んだその人は、穏やかな表情を浮かべ、葉菜を優しく迎え入れた。
「こんにちは。初めまして、沢村正と申します。今日はどうされましたか?」声には不思議な安心感があり、その一言で、少しずつ不安が解けていくのを感じた。
「えっと…最近、眠れない日が続いていて…その、気分がどうしても落ち込んでしまって…」言葉を絞り出すように、葉菜は話し始めた。どう話せばいいのか、どこから説明すればいいのか、混乱している自分に気付く。それでも、沢村医師は一つ一つの言葉に耳を傾け、ゆっくりと頷いていた。
「なるほど、それは辛いですね。最近の生活について、もう少し詳しく教えていただけますか?」彼の優しい口調に促され、葉菜は自分の生活や抱えている問題について少しずつ語り始めた。
「…姉が海外から帰ってきて、それで私が生活の手助けをしなきゃいけなくて。でも、そのことがすごく苦しいんです。それに、母が亡くなったとき、もっと何かできたんじゃないかって後悔ばかりで…」声が震えた。葉菜の胸に詰まっていたものが、少しずつ溢れ出してくる。沢村医師はそのすべてを受け止めるように、静かに聴いていた。
「その状況で、よくここまで頑張ってこられましたね。」彼の一言が、葉菜の心にそっと響いた。
沢村医師はさらにいくつかの質問をしたが、その声には決して急かすようなものはなく、むしろゆっくりと時間をかけて進めていく感じだった。
「まずは、お薬を使って眠れるようにしましょう。睡眠が安定することで、少しずつ気持ちも楽になっていくはずです。あまり急がず、焦らず、一緒に少しずつやっていきましょう。」
その言葉に、葉菜は小さく頷いた。「ありがとうございます。でも、これで本当に良くなるんでしょうか…?」まだ心の中に残る不安が、最後の一言として口からこぼれた。
「大丈夫です。私たちが一緒に進んでいけば、きっと今より良くなりますよ。」沢村医師はそう言って微笑んだが、葉菜にはそれがまるで遠くの光のように感じられた。希望と不安が入り混じる中で、未来はまだ見えない。それでも、今ここで止まってしまうわけにはいかない。そう、やっていくしかないのだ。
診察が終わり、クリニックを出た葉菜は、秋の冷たい風に包まれながら、自分の中に小さな変化が芽生えていることに気づいた。それが良い変化かどうかは、まだ分からない。ただ、前に進んでいくしかないのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
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