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小説「灰色ポイズン」その20ー院長先生の診察


院長回診の院内アナウンスがあってから、どれくらい経ったのかわからない。
しばらくぼんやりとしていると、ノックの音と共に鍵が開けられるガチャガチャ音が響いた。由流里病院長の成田善一郎先生が、まるで絵本の中のクマのような丸っこい風貌で現れた。そして、のしのしと擬音をつけたくなるような歩き方で私の座っているマットレスに近づいてきた。

私は、院長先生が来るのを知っていたのに、なぜか慌ててしまい、挨拶を声にしようとするが言葉にならず、口を開けて酸素不足の金魚のように口をパクパクさせていた。

「やあ、森野カナタさんだったね。おはようございます。色々と大変だったようだけど、ご気分はいかがですかな?」
院長先生は普通のトーンで、普通に挨拶をした。
その何気ない態度に、何だか気が抜けてしまった。
私は、一呼吸おいてからゆっくりと口を開き、高校の同級生だった美菜子先生の父親である成田善一郎氏と、自分が入院している精神科病院の院長である成田院長、両方に無礼にならないように気を遣いながら挨拶を返した。
「おはようございます。お陰様でだいぶ落ち着いてきたようです。美菜子先生のお陰で大変助かりました」と。

院長先生は、それから一緒に来たナースから受け取った小さなクッションを無造作に自分のお尻の下に入れ、床に座った。
院長先生の顔は体格のいい風貌に似合わずメガネの奥の目は黒目がちで愛嬌のあるイケメンというよりは可愛いと表現するのにピッタリだった。それを恐らく隠すかのようにメガネをかけているように思えた。想像だけど。

診察はゆっくりと進んでいった。時折、私が緊張しないように高校の頃の美菜子先生の話などを挟みながら、小一時間ほどの面接は続いた。
小さい頃からの発達の状況や家庭のこと、精神科を受診するきっかけになった事件のことなど、こちらが話しやすいように適格な質問をしてくれた。時にはうなずき、時には頭を抱えるような仕草をしながら、傾聴してくれた。

話をするのがこんなに心地よく感じるなんて…。これが話を聞いてもらうということなのかもしれない。相変わらず頭はぼんやりしながらも、胸の辺りにぽうっと温かみを感じられた。

そして、最後の頃には院長先生から診察が一通り終わったと告げられ、私の方からの要望や質問がないかを聞いてきた。

私は、まず気になる入院期間や自分の病名、治療方法などを思いつくだけ聞いてみた。胸がドキドキと脈打つように上下した。院長先生は何というのだろう?私はいったいどうなっていくの?頭の中は疑問でパンパンに膨れていた。

院長先生いわく、患者と医師という関係においては、今日会ったばかりだからすぐに診断はできないとのことだった。入院の期間については、3日間ほど様子を見てから一緒に考えようと提案された。驚き!私が一緒に考えてもいいのだ。

診察や治療がもっと一方的なものだと精神科医療に対して偏見を持っていた自分が恥ずかしくなった。薬物治療については、気分安定薬で抗てんかん薬としても使用されているものをしばらく飲んでみようと言われた。少し頭の回転が鈍く感じられるのは薬の副作用かとの問いには、それは副作用ではなく、一つの良い効果であると言った。

精神が錯乱を起こす程の状況を薬で調整しつつ脳の回復を待つということだった。担当医は院長先生が受けてくれるとのこと。美菜子先生はサブで診てもらう方が友人関係にいいだろうということで、治療は脅すわけではないが辛くなることも多いから、医師というよりは同級生として相談役に回ってもらうのが最善な方法に思うとのことだった。

私は院長先生の話に手を合わせて心から感謝した。私の人生において、こんなに心強い判断と助けをしてくれる大人はいなかったから。
そうして私の初の精神科入院2日目の朝は、ゆっくりと過ぎていった。

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