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小説「夏眠」:サマー・ハイバネーション「7」ー診察室の静寂

クリニックの建物が目の前に見えてきた瞬間、葉菜の足はピタリと止まった。小さなビルの一角にある、決して派手ではないが、どこか落ち着きのあるその外観が目に入る。それはほんの数メートル先にあるというのに、まるで見えない壁が立ち塞がっているように感じた。

「ここまで来たのに、どうして足が動かないのだろう…」

葉菜は心の中で自問しながら、無意識にその場をウロウロし始めた。少し歩いては立ち止まり、建物を見上げ、また歩く。何度も繰り返すその動きは、まるで迷子の子供が親を探しているかのようだった。

「行かなきゃ…」そう思うのに、心が拒否しているような感覚が強くなっていく。「でも、入ったら、きっと何かが変わる。怖い…」その考えがぐるぐると頭の中を回り続ける。クリニックの扉がまるで巨大な怪物の口のように感じられ、今にも飲み込まれそうだった。

その時だった。不意に背後から柔らかな声が聞こえた。

「今日、ご診察ですか?」

驚いて振り返ると、そこには明るい笑顔を浮かべた女性が立っていた。年の頃は30代後半くらいだろうか。薄いピンクのブラウスにベージュのスカート、肩にかかるくらいの茶色の髪が印象的だった。

「もうそろそろ昼休みも終わりですし、中でお待ちくださいね。」

女性の声は穏やかで、まるで冬の寒い日に温かいスープを差し出してくれるかのような優しさがあった。その声に少しだけ心が解けた気がして、葉菜は小さく頷いた。そして、彼女に促されるまま、やっとの思いでクリニックの扉を開けた。

中に入ると、柔らかな光が差し込む待合室が広がっていた。思ったよりも静かで、ほっとするような空間だ。しかし、まだ心の中には不安が残っていて、座る場所を探しながらも落ち着かない気持ちが続いていた。

「私、ソーシャルワーカーの坂本恵といいます。今日は何かお困りですか?」

さっきの女性が優しく声をかけてきた。葉菜は驚いたが、その声にはやはり不思議と安心感があった。坂本の話によると、彼女の仕事には、まさにこうして患者が躊躇してしまった時に声をかけることも含まれているらしい。薮井クリニックの院長、沢村先生との話し合いの結果、そうするようになったという。

「せっかく予約しても、クリニックの前で診察受けた方が良いのか受けないほうが良いのか迷って結局、帰っちゃう人も多いんですよ。だから、私たちスタッフが少しでも助けになれればと思って…」

そう話す坂本の言葉に、葉菜は少しだけ肩の力が抜けた気がした。クリニックの前で彷徨っていた自分が、決して特別ではないことを知って、少しほっとしたのかもしれない。

「ありがとうございます…声をかけて頂いて。そうでなかったら、私も帰ったかもしれません」

葉菜はそう呟くと、少し落ち着いてきたのを感じた。そして、ここでの時間が、彼女にとっての一歩目になることを、なんとなく確信したのだった。

秋の空気が少しずつ冷たくなり、景色が移り変わるように、葉菜の心にも新たな風が吹き込み何かが変わるかもしれない。葉菜は自分にそう言い聞かせようと頑張って心の中でつぶやいてみた。

坂本恵は柔らかな微笑みを浮かべながら、葉菜を待合室の一角にある小さな相談室へ案内した。そこは、カフェのような雰囲気が漂う落ち着いた空間で、壁には自然の風景を描いた絵画がかかっていた。窓からは柔らかな光が差し込み、外の世界とこの部屋を切り離すかのように感じられた。

「葉菜さん、少しだけお話を伺ってもいいですか?診察の前に、どんなお悩みをお持ちか、簡単に教えていただけると先生もスムーズに対応できると思います。」

坂本が優しく問いかけると、葉菜は一瞬戸惑いながらも、静かに頷いた。初対面の相手に心の内を話すことには抵抗があったが、坂本の穏やかな態度が少しずつ葉菜の心の壁を取り除いていくようだった。

「最近…あまり眠れなくて、気分もずっと沈んでいて…何もする気が起きないんです。というか数日前に目が覚めても動けなくなってしまって、会社にも連絡もできずに同僚に迷惑かけてしまいました。それに普通に生活しているつもりでも、心がここにないような感覚が続いていて…」

言葉を絞り出すように話し始めた葉菜の声は、時折かすれてしまう。それでも、坂本は一言一言に真剣に耳を傾け、時折頷きながら、静かにメモを取っていた。その姿に、葉菜は次第に言葉を続けることができるようになっていった。

「そんな状態が続いて…仕事も手につかなくなってしまって…。それで、今日、やっと…」

言い終えると、葉菜は深い溜め息をついた。坂本は少し微笑みながら、彼女の目を見つめていた。

「葉菜さん、今日はよくここまで来てくれましたね。お話を伺っている限り今日の受診は正解だったと思います。」

あと電子パッドの問診票に既往歴、昔病気をしたことがあるかどうかとか○付けするのもあるから記入するように言われた。もしわからないところがあれば一緒にやろうとまで言われて有り難かった。

坂本の言葉に、葉菜は少しだけ心が軽くなった気がした。誰かに自分のことを理解してもらえる、そんな小さな希望が胸の中に芽生えたようだった。

「ありがとうございます…少し、気持ちが楽になりました。」

葉菜は静かにお礼を言い、少し背筋を伸ばして座り直した。坂本はにっこりと微笑みながら、「それでは、少しお茶でも飲んでリラックスしてくださいね。診察はもうすぐですから。」と言い、立ち上がって部屋を出て行った。

その後の待ち時間、葉菜は心の中で少しずつ自分を取り戻しているような感覚に包まれていた。もしかしたら、この場所で新しい一歩が踏み出せるのかもしれない…そんな思いが、再び彼女の心に灯った。


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