見出し画像

小説「夏眠」:サマー・ハイバネーション[12]-水たまり⁈

その日の朝は、まるで夏の終わりを告げるような湿った風が、窓の外を通り過ぎていった。台風でも来るんだろうか?ニュースどころか天気予報も見ないから何にもわからない。

昨日2週間ぶりに精神科クリニックを受診して薬の量と種類が増えた。

葉菜はカーテンを閉じたまま、ベッドの上で丸くなっていた。クリニックで受け取った診断書を手に、会社に行かなければならないと思っていたが、足がどうしても動かなかった。
時計に目をやると7:11。まだ何とかギリギリ間に合う。

頭の中で「行かなければ」という言葉がぐるぐると回る。しかし、体は重たく、床に足をつけることすら困難だった。ソファのクッションがいつもよりも硬く感じられる。そして、気づけば涙が頬を伝い、喉の奥に何か詰まったような感覚が広がっていた。

やっとの思いで起き上がり、トイレに向かおうと立ち上がった瞬間、足元がふらついて倒れ込みそうになった。すぐに壁に手をついて、どうにか立ち直ったが、その時、不意に感じたのは足元の湿り気だった。はっとして、見下ろすと、そこには小さな水たまりができていた。

葉菜は驚きと恥ずかしさが一気に押し寄せ、手で口を覆った。まさか、自分がこんなことになるなんて…。涙が止まらなくなり、どうしようもなくなっていた時、電話をかける勇気を振り絞った。

「林さん…ごめん、急で悪いけどちょっと来てくれない?」と震える声で言った。

電話の向こうで林育美が「すぐ行くから待ってて」と答えてくれた。理由を何も聞かないで「行く」と言ってくれた。ありがたい、申し訳ない!ありがとう。
その声に、葉菜は少しだけ安堵を感じた。

林育美がやって来たのは、電話をしてから30分ほど経った頃だった。彼女は玄関で、心配そうに葉菜を見つめた。葉菜は泣きながら、ついさっき起こったことを打ち明けた。

「大丈夫、大丈夫だから」と育美は優しく声をかけ、葉菜の手を取ってくれた。まるで子どもをあやすような柔らかい手つきだった。彼女は何も責めず、ただ静かに聞いてくれるだけだった。

「少し、着替えておこうか」と育美は提案し、葉菜は素直に頷いた。林ちゃんは手際良く手を貸してくれて私は着替えをすることができた。
それから、育美は近くの24時間営業のドラッグストアに行って、リハビリパンツを買ってきてくれた。その時の姿が妙に堂々としていて、葉菜はついクスッと笑ってしまった。
林ちゃんの方がお姉さんみたい。

「笑った? やっぱり笑顔が一番似合うよ」と育美は、冗談めかして言った。

その後、育美は葉菜のために、弁当の宅配やスーパーの宅配システムについても話をしてくれた。葉菜が元気を出すために、少しずつ生活を整える手助けをしようと、彼女は提案してくれた。LINEでも時々連絡をくれて、必要なものがあればいつでも頼めるようにしてくれるという。
その上
休職願いと診断書も預かってくれて上司に持っていってくれるという。有り難い...。と同時に申し訳なさで頭がいっぱいになった。

「ありがとう…」葉菜は涙声で言った。それしか言えなかったが、その一言に彼女のすべての感謝が込められていた。

どうやってその日を過ごしたのかベッドの上でまどろみながら時が過ぎて行った。
夕方,トイレに起き上がりその後廊下で座り込んでしまった。這うようにキッチンに行き栄養ゼリーを冷蔵庫から2つ出す。その一つをゆっくり飲み込む。昼に飲むはずだった錠剤を水で流し込んだ。

そして,いつの間にか辺りが暗くなり始めていた。

夜が訪れると、葉菜はまたひとりでベッドに戻った。カーテンの隙間からは、ぼんやりとした街灯の光が差し込んでいた。彼女はその光を見つめながら、自分の胸の中にある重たい石を少しずつ取り除いているような気がした。

今はまだ遠いけれど、少しずつ明けていく夜明けが、いつかきっと訪れる。沢村先生がそう言ってた。
そう信じるしか今は仕方がないのだ。心底信じられないけどそういうもんだ。だって私はうつ病だもん。
葉菜は静かに目を閉じた。林ちゃんと電話で繋がっている。
電話だったとしてもそばにいてくれる。
きっと大丈夫。大丈夫であって欲しい...。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集