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小説「夏眠」:サマーハイバネーション[22]ー治療の壁を越えるには
葉菜は診察を終えて会計待っていた。
クリニックの待合室でうつむいていると、ふとした拍子にソーシャルワーカーの坂本恵が近づいてきた。
彼女はやわらかな笑顔を浮かべながら
「葉菜さん、お時間があれば少しお話しませんか?」と声をかけてくれた。
葉菜は少し驚きながらも頷いた。
何か話すことで気が楽になるかもしれない――そんな気持ちが胸の奥に微かに芽生えた。
最近の沢村先生との診察で何だか本当に言いたいことが言えていない気がしていた。
それをどうするかをずっと頭の隅で考えて続けているようで疲れてきたところだった。有り難い。葉菜は心の中でそっと呟いた。
案内された面接室は明るく、優しい色合いのインテリアが落ち着いた雰囲気を作っていた。
坂本さんが向かいに座り、穏やかに話し始めた。
「最近、どうですか?少しでも調子が上向いているといいのですが」
葉菜は頷いた。
「そうですね…薬が効いてきたのか、少しずつ楽にはなっています。でも…一進一退で、まだ不安定です」言葉を選びながらも、自分の状態を少しずつ口にする。
「そうですか。それは大変ですね、休職を始めてから四ヶ月が経つわけですが、主治医の沢村先生とはどうですか?葉菜さんは安心して話せていますか?」
「えっと」
葉菜は一瞬言葉に詰まった。
主治医の沢村先生のことは信頼しているつもりだったが、どこかで自分の中に遠慮の気持ちがあるのを感じていたのだ。
「先生は…とてもいい方だと思います。でも、つい『迷惑をかけたくない』って考えてしまって。なんだか、自分の全部を話してしまうのが気が引けて…」
坂本さんは優しく頷きながら
「それって、もしかすると昔のお母様に対して感じていた『迷惑をかけてはいけない』という気持ちと、少し似ているかもしれませんね。」と、柔らかい言葉でゆっくりとそう葉菜に投げかけた。
その言葉に葉菜はハッとした。
そうだ!そうかもしれない。
母親のことを思い出し、子供の頃に自分がいつも
「迷惑をかけないように」と感じていたことがよみがえった。
「...そうかもしれません。母はいつも忙しくて、私はあまり手をかけてもらえなかったんです。
でも、それでも更に母の負担にならないようにしなきゃって、いつもそう思ってました。」
ソーシャルワーカーはそっと微笑み、
「そうだったんですね。きっと、葉菜さんの優しさが、その気持ちを育んできたのでしょうね。
でも、今の先生は葉菜さんが安心して治療を受けられるようにサポートしたいと思っているはずです。もしかしたら、頼ることを『迷惑』だとは感じていないかもしれませんよ。」と、優しく励ました。
葉菜は少し目を伏せ、また考え込む。
「そうなんですかね…自分が頼るとどうしても相手に負担をかける気がしてしまって…」
「その気持ち、よくわかる気がします。葉菜さんは小さい頃から優しかったんですね。でもね、先生はプロフェッショナルとして、葉菜さんの話を聞き、支えたいと思っているんです。むしろ、頼ってもらえることに価値を感じているのではないでしょうか」
その言葉を聞いた葉菜の心が、少しずつほぐれていくのを感じた。
長年、誰かに頼ることへの抵抗感が染みついていたが、ここで少しでもそれを緩めてもいいのかもしれない、とふと思えてきた。
「葉菜さんが感じている『迷惑をかけないようにしなければ』という気持ちは、これまでの経験がそうさせているのでしょうね。でも、今の先生には正直な気持ちを話してみてもいいかもしれませんよ。おそらく先生も、そうした不安を理解し、受け止めてくれるのではないでしょうか。」
葉菜は深く息をついて
「...そうですね、話してみてもいいのかも」と小さな声で言った。
「ええ、きっと先生も喜んでくれると思いますよ。葉菜さんが抱えている不安や遠慮も、治療の一環としてぜひ正直に伝えてください。それが、さらに治療を進めるきっかけになるかもしれませんから」
坂本さんの温かい言葉に、葉菜は少しずつ自分の殻を破っていく決心がつき始めていた。
過去の傷や思い込みが癒えるにはまだ時間がかかるかもしれない。
それでも、こうして少しずつ信頼の輪を広げていくことができるのだと思うと、心が少し軽くなった気がした。