小説「サマー•ハイバネーション」[11]ー休職のススメ
海野葉菜はクリニックの待合室で、気だるい体を椅子に沈めていた。
室内の壁には、どこかの風景写真が何枚か掛けられている。見るともなく視線を泳がせる。時折、遠くで誰かの笑い声や話し声が聞こえた。
だが、葉菜にとって、それらはすべて別世界の音のように感じられた。自分の体がここにあるのに、心はどこか遠く、重い霧の中に迷い込んでいるような感覚だ。
「海野さん、診察室へどうぞ」
沢村先生から呼ばれると、彼女は反射的に立ち上がった。まるで自動操縦で動いているような感じだった。
ドクターの後をついていく。
部屋の奥に進むと、椅子に座った沢村正ドクターが穏やかな表情で彼女を迎えてくれた。診察室には、彼の存在が安心感を与えてくれる。そこには、温かい光と同じように、彼の優しい声があった。
「今日はどうですか?食欲は?」
沢村ドクターは、ゆっくりとしかし淡々と質問を投げかける。そのやさしい口調には急かすような感じがまったくなく、葉菜は少しだけ心が軽くなるのを感じた。
「食欲は……あまりないです。栄養ゼリーとか、レトルトのお粥とか、スープとかばかり食べています。」
彼女の声は、まるで遠くから聞こえる囁きのように小さかった。
「そうですか、睡眠はどうです?」
「薬を飲んでいるので……眠れていると思います。でも、なんだかスッキリしなくて」
葉菜は机の上に視線を落としながら答えた。彼女の手が微かに震えているのを、沢村ドクターは見逃さなかった。
時々、葉菜の手は無造作に彼女の顔に行き頬から顎、頭の方へとさするように動いていた。小さい声で沢村ドクターがつぶやいた
『フムスコシチンセイヲカケヨウ』
一体なんのことだろう?何かおまじないみたい....。
「うん、今の状態だと辛いですね。少しお薬を増やしますね」
彼は優しい目で彼女を見つめながら、静かに提案した。
「しばらく休職しましょうか。診断書を書きますので、それを会社に提出してください。このまま曖昧に会社に行けたり行けなかったりでは、精神的にも良くないですよ。どうでしょうか?」
葉菜はその言葉を聞いて、一瞬、目を閉じた。
そして、ゆっくりと頭を縦に振った。
それから、頭の中で何かがざわざわと音を立て、胸の奥に不安が波のように押し寄せた。彼女は深く息を吸い込んで、ようやく声を絞り出した。
「あの先生、私の何がいけなかったのでしょうか?」
言葉は彼女の唇から自然と零れ落ちた。まるで自分自身に問いかけるように。
「友人から、私がうつ病になったのは過去の行いが悪いからだって言われました。つまり、前世で何か良くないことをした報いを、今、私が受けているんだって。そうかもしれないって思うと、苦しくて……。今の状況は変えられないけど、過去はもっと変えられない。それが本当にそうだとしたら、私はもう逃れられないんじゃないかって…」
葉菜の声は次第に小さくなり、最後には自分でも聞き取れないほどだった。恥ずかしさと、無力感が入り混じった感情が胸の中で渦巻いていた。
沢村ドクターは、そんな彼女の言葉を静かに聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。
彼は椅子に深く腰を沈め、穏やかな声で言った。
「海野さん、こちらを見てください」
彼女が戸惑いながら顔を上げると、彼の目がしっかりと彼女を捉えた。
「いいですか、うつ病は誰のせいでもありませんよ。たまたま、そうなってしまっただけなんです。前世のことなんて、気にする必要はありませんよ」
彼の言葉は柔らかく、しかし確かな響きを持っていた。
「海野さんはYouTubeを見ることはありますか?今は少し辛いかもしれないので見ることはできないと思いますが、そのうち少しでも動画を眺められるくらいになったら[精神科医益田裕介]という方の動画をお勧めします。彼の話が、少しでもあなたの心を軽くするかもしれません」
沢村ドクターの言葉は、まるで遠くから聞こえる優しいメロディのように葉菜の心に染み渡った。
「うつ病の急性期は全ての方ではないのですが、大体治療を始めてから3ヶ月くらいかかります。
とにかく、今は休んでください。今のあなたの仕事は心身を休めること。お薬を少し増やすのでちゃんと飲んでね。眠れるなら、ずっと眠っていて構いません。今は辛い時期ですが夜明けは必ず訪れますから」
彼の言葉に、葉菜は少しだけ救われたような気がした。彼女は静かに頷いた。
「また来週、顔を見せに来てくださいね。約束ですよ」
沢村ドクターの温かい笑顔が、彼女の心にほんの少し光を灯したように感じられた。
と同時に葉菜ぼんやりとけれども一瞬自分に来週なんて来るのだろうか、と他人事のようにそう思った。