小説「夏眠」:サマーハイバネーション[16]ー焦り[17]から[23]までインデックス付き
葉菜はベッドの上で、再び無音の世界に沈んでいた。窓の外からは薄い光が差し込んでいるが、それが何の意味も持たないほどに、彼女の心は重たかった。
「皆、頑張っているのに……私だけがこうして取り残されている。」
その思いが、まるで体の中を流れる血のように、彼女を支配していた。仕事を休職してから、時間が止まったように感じる。周りは動き続けているのに、自分だけがこの世界から切り離されている。そう感じるたび、息が詰まるような感覚が押し寄せてきた。
「沢村先生に言ってみよう、仕事に戻れるかもしれないって。」
頭ではそう決意するが、心はまったく落ち着かない。体も思うように動かない。次の診察が近づくにつれ、葉菜の中にある焦りは日に日に強くなっていた。彼女は、自分がこのまま家に引きこもっていることで、ますます病状が悪化してしまうのではないかと恐れていた。
「仕事に戻れば、少しは元に戻れるかもしれない。」
その期待だけが、葉菜を支えているように思えた。しかし、沢村先生にそのことを相談しても、本当に理解してもらえるのだろうか。彼は優しい。けれど、時折その優しさが、かえって自分の弱さを浮き彫りにすることがあった。
葉菜は深く息を吸い込んで、窓際の椅子に腰を下ろした。昼過ぎの静かな時間が、彼女の周りを包み込む。
「何でこんなに弱いんだろう……。」
ふと、そう呟いた。誰に向けたわけでもない言葉が、ただ虚空に消えていく。自分が無力で、他の人たちのように強く働くことができない。そのことが、彼女をさらに追い詰めた。
その時、スマホが震えた。沢村先生のクリニックからのリマインダーだ。
「次の診察は……もう明日か。」
葉菜はしばらくスマホの画面を眺めていた。彼に話すべきか、話さないべきか、その思いがぐるぐると頭の中を回る。
翌日、クリニックの待合室に座っていると、周りの患者たちの表情が彼女には異様に明るく見えた。皆、それぞれの問題を抱えているはずなのに、なぜこんなにも落ち着いていられるのか。葉菜の胸の奥で不安と焦りが渦巻く。やがて、彼女の名前が呼ばれ、診察室へと足を運んだ。
「どうですか、最近は?」
沢村先生は、いつものように穏やかに問いかけてくる。その優しい声に、少しだけ心が和らぐような気がしたが、それでも不安は消えなかった。
「先生、私は仕事に戻った方がいいんじゃないかと思ってます。」
葉菜は、思い切って口を開いた。沢村先生は少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。
「どうして、そう思うんですか?」
その問いかけに、葉菜は言葉を詰まらせた。どうして、と言われても、うまく説明できる自信はなかった。ただ、家に閉じこもっていることで、ますます自分が壊れていくような気がしていたのだ。
「……家にいると、余計に焦ってしまって。このままじゃ何も変わらないって思うんです。だから、仕事に戻れば、少しは良くなるんじゃないかって……。」
自分でもまとまりのない言葉だと思った。それでも、何かを変えなければ、もうどうしようもない気がしたのだ。
沢村先生は静かに頷いたが、その目は彼女をじっと見つめていた。
「葉菜さん、それは本当に仕事に戻りたいからですか?それとも、ただ焦りからそう感じているだけですか?」
その問いに、葉菜ははっとした。自分が本当に仕事に戻りたいのか、それともただ現状から逃げ出したいだけなのか……その違いが自分でもよくわからなかった。
「わからない……でも、今のままじゃ……。」
そう言いかけて、葉菜は言葉を飲み込んだ。涙が自然と目に浮かんできて、どうしようもなくなった。
「何をしても、変わらないんです。家にいても、外に出ても……。もうどうすればいいのか、自分でもわからなくなってしまいました。」
葉菜は、思わず泣き出してしまった。泣くつもりはなかったのに、沢村先生の前で涙が止まらなくなってしまったのだ。
「私がこんなに弱いなんて、信じたくないんです。」
その言葉を口にすると、自分がどれだけ自分を責めていたか、初めて気づいた。沢村先生の言葉を信じたいのに、それでもどこかで信じ切れない自分がいた。
「それでも、葉菜さんがここに来て、今こうして話していること、それ自体が大きな一歩なんです。」
沢村先生は優しくそう言ってくれた。だけど、その言葉すら、今の自分にはすべてが虚しく響いた。信じられない自分が、どうしようもなく嫌だった。
「信じたいんです。でも、どうしても信じられないんです……。私、どうしたらいいんですか……?」
その言葉を口にすると、涙が止まらなくなった。沢村先生の優しさに、かえって自分の弱さが浮き彫りになり、何もかもが苦しくてたまらなかった。
「今は焦らず、ゆっくりでいいんです。葉菜さんのペースで、進んでいけばいい。」
沢村先生の言葉は、まるで静かな波のように彼女の心に広がっていった。しかし、その波はすぐに消えてしまう。自分が変わらなければ、何も変わらない。そう思うと、また自分を責める思いが込み上げてきた。
「でも……私、戻らなきゃいけないんです。でないと、この孤独感から逃れられない……。」
葉菜はそう呟いたが、その言葉には自分でも確信が持てなかった。ただ、何かを変えなければならないという焦燥感だけが、彼女の胸に残っていた。
クリニックを後にした帰り道、秋の風が冷たく肌を撫でた。その冷たさに、葉菜は思わず身を縮めた。
前回の「夏眠」[15]は↓
つづき [17]↓
[18]↓
[19]↓
[20]↓
[21]↓
[22]↓
[23]↓
[23]↓