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小説「夏眠」:サマーハイバネーション[21]姉と距離をとってもいいんだ

葉菜はウトウトとまどろみながら昼寝とも居眠りともつかぬ休息から目覚めようとしていた。

手の中で何かがカサカサと音がした。
手の中には、沢村先生から渡された一枚のコピーがある。
エッセイのタイトルは「働くことの意味」。白黒の文字が並ぶその紙片が、思いのほか重みを持って感じられた。少しだけため息をついて、ヨロヨロと起きて椅子に腰を下ろす。

そして、しばらくそのまま座っていたが、やがてエッセイを読むことにした。

「働くというのは、必ずしもお金を稼ぐことだけを意味するわけではありません。私たちは日々、形は違えど、みな何かしらの“働き”をしています」

ページをめくる手がふと止まった。「働き」という言葉が、自分の中にじわりと染み渡っていくのを感じる。葉菜はここ最近、家にこもりがちで、何も「働いていない」と感じていた。周りの人々が仕事に励む中、ただ家で過ごす自分がまるで役に立っていないような気がしていた。けれど、沢村先生のエッセイを読むことで、「自分には価値がない」という重たい思いが少しだけ和らいでいくように感じられた。

エッセイに続く言葉を胸の中で繰り返し、少しずつそれを自分のものとして受け入れていく。とはいえ、完全に納得できているわけではない。
「働けない自分」「動けない自分」に対する焦りが、彼女の心を締め付けているのも事実だ。エッセイが心を温めてくれる一方で、その安心感がすぐに焦燥感にかき消されてしまうような、そんな微妙な心の揺らぎがあった。

そんなとき、不意に姉・美穂のことが頭をよぎった。香港で気ままに暮らしていた美穂から、最近、前よりも頻繁に連絡が来るようになっていた。

美穂は無一文で日本に戻るつもりだという。感染症対策でビザの条件が厳しくなりどういうわけか銀行が凍結されてしまったとのこと。
姉のことは心配ではあるが、葉菜は、姉と連絡を取るたびに、過去の苦痛な記憶がフラッシュバックし、息苦しさに襲われていた。
美穂にはアスペルガー傾向があり、人の気持ちを汲み取ることが苦手だ。何度か距離を置こうとしたが、結局うまくいかず、そのたびに鬱症状が悪化していた。5歳上の姉、美穂は自分が正しいと信じる事には迷いがない。しつけと称して頭を叩かれたことがある。
言葉の暴力も辛いがその時は肉体的に耳の鼓膜が破れたし何よりも恐怖心がいっぱいになり思い出す度に息が苦しくなった。

今日の診察で沢村先生はこう言ってくれた。

「物理的な距離と心の距離を保つことが大事だよ。必ず返事をしなければならないわけじゃない。葉菜さんが話せるとき、話したいときにだけ応じるんだ」

それは、自分を責めることが当たり前になっていた葉菜にとって、新しい視点だった。「距離を取ってもいい」という許可をもらった気がした。

沢村先生はさらに、「姉との関わり方をルール化してみてはどうだろう?」と提案してくれた。たとえば、月に一度だけ短時間話すように決めること。また、美穂が話し続けてしまいそうなら、「今日は時間がないから短めにお願い」と最初に伝えることもできる。

葉菜はふと、そのやり方なら自分にもできるかもしれないと思った。過去の痛みを抱えながらも、少しずつ自分のペースで姉との距離を調整していく。それは、沢村先生が言った「自分を守るためのサポート」を増やしていくということに繋がっているのかもしれない。

葉菜はゆっくりと紅茶を淹れて、静かにエッセイを読み返した。

「働けないことで、社会とのつながりが失われるのではないかと不安になる人も多いでしょう」

この一文が目に留まり、葉菜は自分の胸がじんわりと熱くなるのを感じた。「そうなんだよね、結局、それが怖いんだよね」と、心の中で小さく呟いた。彼女にとっては、働けないことが「自分に価値がない」という不安に直結していた。でも、エッセイの言葉はそれを静かに否定してくれる。金銭を伴わなくても「働き」は存在し、価値のあることだと、そう葉菜に語りかけてくるのだ。

再び、葉菜はベッドに横たわり、沢村先生の言葉を思い出していた。

「急性期のうつ病は、脳の調子が少し崩れている状態だから、まずはそれを整えることが大事なんだよ」

この言葉が今の彼女には、どこか救いになっていた。焦らずに待つこと。それも「働き」の一つなのだと、少しずつ自分に言い聞かせるように考える。待つことができるのもまた一つの価値であり、自分を大切にするための「働き」だと信じたいと思った。

次の日、葉菜は決意して姉からの電話に出た。だが、その前に、まず深呼吸をして、自分の中でルールを思い返した。「今日は短時間だけ話そう。そして、話したくないことは無理に話さなくていい」と自分に言い聞かせる。

電話の向こうからは、相変わらず美穂の一方的な声が聞こえてくる。内容は最近起きた不条理なことや今後のこと,ビジネスプランなどなど。
葉菜は美穂の言葉にうなずきながらも、どこか冷静に自分を保っていた。そして、タイミングを見計らって「ごめんね、今から用事があるから今日はここまでにしてもいい?」と伝えた。美穂は少し不満そうだったが「オッケー!」と
意外にもそれを受け入れて電話を切った。

電話を切った後、胸がドキドキしているのを感じた。口をすぼめてフーっと息を吐く。
葉菜は少しだけほっとした。
自分のペースで距離を取ることができた!。
沢村先生が教えてくれた方法を試してみた結果、自分を守りつつ姉との関係を続ける道があるかもしれないと感じた。

窓の外を見上げると、夜の静かな星空が広がっていた。
焦りや不安はもちろんすぐに完全には消えないが、今の彼女には少しだけど余裕が生まれていた。
そしてその余裕が、自分を守りながら、未来に向けて少しずつ進んでいくための小さな一歩になるかもしれないと思えた。

葉菜は、再び沢村先生からもらったエッセイの最後の一文を思い出しながら、そっとつぶやいた。

「焦らなくてもいい。今はそれが私の“働き”なんだ」

その言葉が、静かに彼女の心の奥深くに染み込んでいくように感じられた。

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