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小説『灰色ポイズン』その24ー爪が伸びるのが嫌

前回のこと:入院3日目の早朝というか夜中に、私、森野カナタはどういうわけかフラッシュバックを起こして大パニックになった。

幸い入院中だったので定期巡回で夜勤のナースに発見され、当直医に処置してもらった。
安定剤を注射してもらい、そのまま眠っていた。目が覚めると美菜子先生が傍らにいてくれた。私が自分のことを他人事のように話すということから、離人症の話になった。

そこで話が美菜子先生と私の学生時代、つまり高校時代の話になったのだが、私が高校時代にあったことを覚えていないことを自覚したのだった。
  ○                     ○                    ○

美菜子先生が残り少ない点滴のボトルを見て言った。「あと5分くらいで点滴が終わるけど、トイレ行きたいでしょう。外しても構わないけど、どうしたい?」

私はズバリのことを言い当てられて少し恥ずかしかったが、点滴を外してもらうことにした。だいたい、トイレに行きたい感覚で目が覚めたようなものだったから、ありがたい申し出だった。持つべきものは、医者の友だな?わけのわからない言葉を頭に浮かべながら、私は赤ん坊のように粗相をせずに済み、美菜子先生に心から感謝した。

そういえば、ここに来てから何度彼女に感謝したのだろう。自分のことでは泣けない私が、美菜子先生の親切に涙が出そうになった。胸の奥がじんわりと熱くなって、それが上に上っていって目に涙が浮かんだ。

時計を見るとちょうど昼ごはんが始まる時間だった。昼ごはんのメニューを知らないなと思ったら、美菜子先生が私の考えを読んだかのように言った。「今日のお昼はね、アジフライとかき玉汁とミックスサラダ、後は確か何かのフルーツゼリーの以上よ」

私は驚いた表情で礼を述べた
「ありがとうございます」

美菜子先生は検食するからと言って、私と一緒に昼ごはんを食べてくれた。デザートのフルーツゼリーは桃のムースだった。トロリとふんわりがミックスされた食感で、ひと口ごとに桃の香りが口じゅうに広がった。こんな状況なのにデザートは美味しかった。

美菜子先生は、昼過ぎ14:30くらいに院長先生が診察に来ることを告げて外来へと足速に向かって行った。

美菜子先生が言っていた通りに14:30に院長先生が病室を訪れた。そして院長先生の誘いにより、別室の面接室に移動して診察が始まった。

院長先生は、話したいことがあれば話しても良いし、質問があればどうぞとのことだった。
私は「先生、ごめんなさい。私、何を話していいのかわからないのです」と素直な気持ちを言ったら「何を話していいかわからない!と今も話している」と院長先生が言ってニッコリ微笑んだ。

「何も無理に話す必要はないですよ、お気になさらずに」と続けて言った。それから、5分ほど沈黙が続いた。話すことがなければと前置きをして、入院してからの気分の変化などを質問してきた。時間が30分ほど経ち、私は下を向いて沈黙していると急に手の爪が伸びているのに気づいた。

私は爪が伸びるのがひどく嫌なのだ。だから普段は深爪でいつもギリギリのラインで爪切りをしている。流行り始めたネイルをするところではなかった。
段々息が速くなって過呼吸気味になった。
「院長先生、お願いが あります。爪切りを 貸して
ください」と途切れ途切れに言った。

院長先生は「わかりました。爪切りくらいお安いご用だ。面接ももう終わりだからナースに爪切りを持ってきてもらおう。ただし、念のために言うけど爪切りは爪を切ることだけに使ってね」と言ってくれた。

そして、すぐにナースに爪切りを頼んでくれた。爪切りはすぐに届いたが、手が震えて爪が上手く切れずにいると、ナースが申し出てくれて子どものように手の爪をきれいに切ってもらった。なるべく短く切って欲しいとの私のリクエストにナースは懸命に応えてくれて、私の手の爪は全部短くきれいになった。

私は爪を切ったことで気分が落ち着いてきた。
ふうーっ!ようやく思い切り息を吸えるようになった。

すると部屋から出て行ったはずの院長先生がノックをして入ってきた。「ちょっとだけ、いいかな?」と院長先生。私は「もちろんです」と言った。

院長先生が質問したいことがあるけど、答えたくなければ答えなくても大丈夫だからと前置きをして聞いてきた。
「爪が伸びていることがとても気になるようだったけど、何か特別な理由がありますか?」

「はい、理由はあります。でも、すぐには答えられません。話をしているうちに気分が悪くなりそうで…」

「オッケー!じゃあこの話はおしまいにしよう。急にこんなことを聞いてすまんかったね」と謝る必要のない院長先生が真摯に謝ってくれた。

私は、何か申し訳ないのと、院長先生には本当は伝えたいのだと思えてきて、勇気を出して震える声で言った。
「先生にはお伝えしたいのですが、今、言う元気がありません。ただ一つだけ言えるのは、私は髪が伸びたり爪が伸びたりするのを感じることが嫌なんです」

院長先生は「ありがとう、ありがとうね。今はこれで十分だ。さあ、ゆっくり休んでください。補助看さんにお茶でも持ってきてもらおうか?」と言ってくれた。

私は素直に院長先生の申し出を受けて、おやつに頼んでいたバタークッキーと紅茶を持ってきてもらい、何とか気分を変えることができたのだった。

おやつのクッキーは昔シスターアグネスが焼いてくれていたバターたっぷりのクッキーに似ていた。
これを作った人もきっとおっちょこちょいなのかもしれない。ひと口食べてるとバニラ強めの甘い香りに包まれた。懐かしい味だ。

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