自己紹介・ヨークシャー行き当たりバッタリ人生その1『音楽を勉強したい』
私は人様の自己紹介を見るのが好きである。
基本的に人見知りなので、最初にある程度人柄を知っておきたいという気持ちが働くからかもしれない。
自己紹介には人柄を構成する事柄が含まれていて、その人の歴史だと思う。
歴史を知らずして未来は語れない。
相手のことを知らずに、最初から自分のペースで話したりすると嫌厭される傾向にあるようだ。
この傾向はどうやら日本語で話す場合が殆どなので、日本語で記事を書くことにした場合も同様かと思われる。
私の自己紹介も私の歴史であり性格構成に影響を与えている事象である。
私は英国の北ヨークシャーのとある街に住んでいる。
その前はロンドン北部在住で、セントラルロンドンのリージェントストリート沿いのオフィスで働いていた。
仕事は充実していたものの、ある心残りがあった。
それは幼少期に読んだ「秘密の花園」の舞台であるヨークシャーを訪ねることだった。
そして、ある5月の最初のバンクホリデー(祝日)を利用してヨークシャーを巡る旅に出た。
その時泊まったのが現在住んでいる街である。
5月初めのヨークシャーは森には一面のブルーベル、森の奥からは一面の黄金色の菜の花畑となだらかな緑の丘と青い空。言葉で言うのは簡単だが、この風景の色のコントラストは実際に目にしないと伝えられない。
この旅での印象が強烈過ぎて、その1年後に仕事を辞めてこの街へ引っ越して来た。
知り合いも仕事のアテもなく単ここに住みたくてやって来たので、当然最初は途方に暮れた。
この時は流石に相当こたえたようで鬱とパニック障害を発症した。
数年の投薬やカウンセリングで回復したもののパニック障害とはずっと一緒に生きていかなくてはならないようだ。ある程度はコントロールできるようにはなったが、それでもこのパニック障害が後々に今でも私を苦しめることになる。
ロンドンでやっていた仕事からは完全に足を洗って、手に職をつける仕事がしたいと思った。幸いこの街には有名なカフェ・ティーハウスがある。
早速そこで調理アシスタントとして働きながらこの辺では大都市リーズ(LEEDS)の調理学校に2年間通って資格を取った。
その後ロゼットの薔薇(ミシュランの星のようなレストランの評価)が付いたホテルのレストランで下っ端シェフとして働き始めた。
レストランの仕事は重労働で勤務時間も長く、毎晩寝る為だけに家に帰るような生活だった。
その頃どうしても欲しくて仕方がなかった可愛い子が家に来た。
現在も我が家のドンであるジャックラッセルのエピヌである。
このエピヌの為に毎日午後の休憩時間に半走りで帰宅、軽く散歩をして職場へ戻り夜中近くに帰宅する生活だった。
エピヌが一人で過ごす時間が寂しく無いようにと思っていたら偶然当時2歳のジャックラッセルの女の子の里親募集をみつけた。写真でその子を一目見た瞬間この子だ!と思い早速その子を引き取りに行った。これが最愛のスーチーとの出会いだった。
流石にこの生活が長くなると、いつも疲労困憊で足腰痛も酷くなった。
この時のヘッドシェフが若いけど華やかな経歴の持ち主の厳しい人で、憎まれているんじゃ無いかと思うくらいしょっちゅう泣かされた。
特にスープに関しては毎日作って味見してもらい合格するまで1ヶ月掛かった。
この頃は主に製菓部門とスターター(前菜)部門の担当及びパーティや結婚式など大人数へ配膳する仕事が多かった。キッチンの憧れは何と言ってもメインディッシュ担当になることで、2年弱でやっとメイン担当へ異動できた。
順風満帆と思いきや、このヘッドシェフがヘッドハンティングされて職場を去ってしまい、その当時のスーシェフ(ヘッドシェフの二番手シェフ)がヘッドシェフに昇格した。この新しいヘッドシェフと相性が悪かった為、退職してとあるイタリアンカフェ・レストランのパティシエとして就職した。
ここでの仕事は専用のベーカリーで1日中お菓子を作ることだったので気楽であった。
毎日クラシックFMを聴きながらお店に出すケーキやスコーンを作っていた。
ある日ラジオから流れて来たバイオリンの調べが美し過ぎて、つい手を止めて聴き入ってしまった。そのバイオリニストがグラミー賞受賞者のジョシュア・ベル様だった。
どうしても彼の生の演奏が聴きたくて、ロンドン公演を聴きに行った。
あまりにも音が美し過ぎて涙ボロボロ流していたら、周りは総立ち拍手の嵐、ブラボーの叫び声が飛び交っていた。
この方はお疲れにも関わらず、公演後にサイン会を行っていた。
見るからに消耗しきっているのにお年寄りや子供には特に和やかに接していて、私も握手してCDにサイン&写真も一緒に撮って頂いた。
緊張していたので震える声でちょっと話して握手して貰った時の手の感触は思ったより柔らかくてちょっと驚いた。これがあのバイオリンを弾く手なのか!
その頃は日本は東日本大震災後だった。
地震直後に日本に電話をしていたのだが通じなかった。
私の両親は日本におり、震源地にも海岸にも割と近いところに住んでいたので、もしや私は孤児になったのではと思った。
幸い難は逃れたものの実家は壊れて住めなくなったので、妹家族と二世帯住宅を建てて住んでいる。私の育った家は無くなった。
そんなこともあって自分の人生を見つめ直す時期であった。
今のコロナもそうだが、人生突如何が起こるか分からない。
後悔しない毎日を送ることの意義を考えた。
私が一番好きなこと、やりたいことはなんだろう。
一生シェフとして死ぬのはいやだ。死ぬときは音楽家として死にたい。
ジョシュア・ベル様のようにステージで演奏してみたい。
現実問題としてまず音楽を始めよう!
いつかやりたいと思っていたクラリネット練習を再開しよう。
ちゃんと先生について一から習おう。
そう思い立って、まずクラリネットの先生を探すことにした。
またしても西ヨークシャーのリーズに初心者大歓迎の音楽学校を見つけた。
そこでクラリネットの個人レッスンもやっているらしい。
早速トライアルに申し込み、初レッスンに挑んだ。
最初のレッスンで先生に楽譜は読めるか等質問された。
子供の頃ピアノを習っていたし、20年以上前だが中学校で吹奏楽部でクラリネットを吹いていた経験があるので楽譜を読むのは大丈夫であった。
しかし、「では、この楽譜のキーシグネチャーは何ですか?」と聞かれ固まった。
キーシグネチャーとは何か分からなくて質問した。
すると先生はそれはシャープやフラットの記号がついたことで変わった調のことだよと教えてくれた。
シャープやフラットがつくと半音上がったり下がったりするのは知っていたけど、ああそういえば中学校の音楽の授業でト短調とか習ったなぁと微かに思い出した。
そういえば、音符の呼び名も知らない。四分音符とか八分音符とか英語で何て言うんだろう(*イギリス英語とアメリカ英語で呼び名が異なる)
英語だとドレミファソラシドじゃなくてCDEFGABって言わなくちゃいけない。それもすぐには声に出ない。
イギリスにはABRSM(英国音楽学校協会)なるものがあって、レベルに合わせて8段階グレード1から8まである。そして実技でグレード6以上の試験を受けるには音楽理論のグレード5以上の試験に合格していなければいけないと知って目の前真っ暗になった。
とりあえず週に一回その先生のレッスンに通うことになった。
クラリネットも数十年ぶりに吹くのでまずリードを買った。
楽器は昔日本でお金貯めて買ったけど使っていないのを持って来ていたのでそれを使用した。
仕事の方は相変わらずだったが、セクハラにあったり嫌なこともあって転職を何度かしていた。
ただシェフ歴が長くなったことやお店でのケーキの評判が相成って転職は簡単だった。知り合いのケータリング専門のエージェントもおじさんがすぐに仕事見つけてくれて面接までセッティングしてくれたし、面接すれば大抵採用された。
シェフ友人のネットワークであちこちからオファーが来たし、ヘッドハンティングもされたので、仕事探しは楽だった。
ただクラリネットの練習をする時間とレッスンに通う時間を確保するため、シェフとしては難しい昼間のみの仕事を選んだ。(週末だけ夜も働かざる得なかったが)
仕事の休憩時間に少しづつ音楽理論の勉強を始めたが、最初はさっぱり訳わからなくて涙出た。それでも少しづつ理解始めて先生に内緒で音楽理論グレード5の試験を受けて合格した。合格証が来てから先生を驚かしたくてレッスンの時に見せたら大層喜んでくれた。少しだけ前進。レッスン始めて4年目のことであった。
レッスン始めて5年でグレード8実技試験に挑む予定だったが、その前にリーズの音楽大学のオープンキャンパスデーに行ってみた。
もしグレード8に合格したら、次の年にこの学校の試験を受けたいと思ったので、入学条件に必要なことを聞きたいと思った。
学校のホールやリサイタルルーム、練習室等の見学の後、アドミンの部屋で入学相談や学費の説明を受けることができた。
私は21歳以上なので社会人入学枠が適用されるので、高校卒業していて音楽理論のグレード5以上合格していれば受験資格があるとのことだった。
しかも実技グレード8スタンダード、つまりグレード8に合格していなくても同じくらいのレベルであれば受験可とのことだった。
アドミンのお姉さんが「今ね、まだ数枠だけクラシック科に空きがあるの。今年の9月開始のコース。今から2週間以内に書類送れば間に合うからダメ元で受けてみたら?」と言われたので、帰ってすぐに先生に相談した。
イギリスの大学はUCASという専門の機関が各大学の受付窓口になっていることが多く、私の場合もUCAS経由で受験申し込みをしなければならなかった。
確か3000ワード程度の志願動機を書いたり、私のことを知っている所謂プロフェッショナルと呼ばれる仕事に就いている2人ぐらいから推薦状のようなものを書いてもらわなけれなならなかった。なんとかそれはクリアして受験申込してから2週間くらいで大学から参考音源つまり動画オーディションの案内がきた。
正式オーディションが終わっているため、急遽ビデオオーディションになり、クラリネットの先生の指導の元ビデオを撮って送った。
次は電話インタビューで大学の先生と電話で面接?をした。
そして合格認定を戴いた。
ところが、その1ヶ月後。大学から手紙で9月から学部ではなく下のファウンデーションレベルからオファーがきた。
何故急に学部入学が出来なくなったのか困惑して大学へメールした。
どうやら日本の高卒が英国のAレベル(16ー18歳で受ける高校レベル)と同等かどうかの確認が取れないとのことだった。
私はその決定を理不尽に感じたので、日本では高校を卒業したら次は大学へ進学するレベルであること、何故英国Aレベルと同等に扱われないのか納得できない旨を長々としたためたメールを面接担当してくれた先生に直接送った(のちにこの先生はクラシック科の一番偉い教授だったことを知る)
それから1ヶ月全く返信が来なくなったので、ファウンデーションレベルでも入学許可取り消しなったのかと思い、確認メールをアドミンに送った。
すると、協議の結果、私の学部入学が正式に認められた報告とレターが届いた。
あのキーシグネチャーさえ知らなかった最初のレッスンから5年過ぎていた。
そして、さらにあれから3年経った今、コロナでロックダウン中ながら卒業を賭けた最後の課題提出1週間前の状況に立たされている。
音楽家のスタートラインにさえ立てていないので、まだ死ぬ訳にはいかない。
音大入学後の波乱万丈については次回。。