わたしの仕事観
「判で押したような仕事はきらいだ」「組織のコマになって働きたくない」
これが、20歳を過ぎたころの、私の考えだった。
でも、親は、そういう仕事に就いて安心したかったようだ。
それを、40歳過ぎの昨日、母親と話して気付いた。
「あなたは、いつも忙しそうにしている」「あなたは、いつも難しそうな顔をしている」
それが、母親から見たわたしの姿だった。
仕事がそこにすでにあって、そのうちの1つの役割を果たしていく。それで社会がまわっている、という考え方もある。
それであげた利益を、報酬としていただく。それで食べていく。それはそれで素晴らしいことだと思う。
ただ、私の仕事観と照らし合わせると、少し違和感を覚えるのだ。
仕事がそこにすでにあって、、、、とは言うが、
果たして、本当に20年後、30年後、あるのだろうか。その保証は?
廃れていく、もしくは、必要とされなくなる仕事ではなかろうか。
そんな不安を覚える。
「仕事は自ら作るべきもので、与えられるものではない」と、
毎朝、朝礼で叫んでいた経験もある。
その考え方に、どちらかというと、私の仕事観は、近いのかもしれない。
「仕事は創るもので、新しい価値を生み出していくものだと思うよ」
と母親に伝えたら、まったくもって理解している様子ではなかった。
育ってきた環境によって、価値観は異なる。
育ってきた世代によって、価値観は異なる。
母親と話してみて、世代や環境だけでは片づけられない深い思いがあるように感じた。
もちろん、時代とともに価値観は変わる。
無理に変えなければならない状況も訪れる。
今までの常識にはあてはめられない働き方、生き方が生まれる。
「親は子に幸せになってもらいたいんだよ。」と母親。
まるで、私が幸せではないかのような言い方。
「ボクは、毎日働かせてもらって、仕事を新しく創るようアイデアを出して、それが新しい価値を生み出して役に立つのなら、幸せだよ」
と返した。
「幸せなら、それでいい。私を不安にさせないでおくれ。
あなたも親なら、そのうちにわかるよ」
母親はそう言って、静かにお茶を口元に運んだ。
さて、どんな新しい価値を、生み出そうか。
そう思って、今日もアンテナを張る。