見出し画像

ありのままを受け入るということ

最近言葉を喋れるようになった姪っ子が、ついに、お歌を歌えるようになりました。
レパートリーは3つ。きらきら星と、トトロの散歩と、レット・イット・ゴー。

「とまーどい、きずーつき、だれにもじゃまされーずに、なやんでーた、それーももう、やめーよー ありのままのーすがたーみせるのよー」

幼稚園行くか行かないかなのに、傷ついてるなんて大丈夫か??と焦ってしまいました。
逆に言葉の意味が分からなくても、歌って覚えられるんだな、て思いました。

そんなことはおいておき...
ありのままでいいんじゃないか?と思ったお話。

最近心理学の勉強をさぼっていますが、
忘れた事もあるし学び直さないとなーと思っています。机上で勉強しただけでは実践できません。

結局さっと学んだだけでは誰も助けられないし、
まだまだ勉強しないとなと思います。

身近に心を痛めている人に人がいる時に、どうしたらよいのだろうと今でも思います。


付きあいが長く本当に私のことを知っている友人には、私の性格上、心を痛めている人に関わりすぎたら、相手の負担になり、さらに一緒に闇落ちをするから、関わってはいけないといわれました。


まあ、その通りなんですが...。

それまであからさまに仲良くしていたのに、相手がしんどそうになったら、さっと距離をとるのは冷たすぎませんか?
職場とかではわりと、それが多数派だと思いますが、
私は私だけでも見捨てずにいたいなーとかつては思っていました。
でもそれは、ただ単に冷たい人たちだというわけではなく、そっとしておくのが関係を持続するために、まあ、相手のためにもベストだったんだなと今は思います。

距離をとるのは、無視をすることではなく、そっとしておくこと。

でもそれが、自分の担任する児童生徒だったら?
自分の家族や恋人や親友だったら?


それでも、そっとしておけばよいのかもしれませんが、やはり1番は、命は大丈夫なのかと思ってしまうわけです。
そうなってしまったら、後悔してもしきれないので、声をかけたくなってしまいます。


難しい。

例えば...

「時間が解決するから大丈夫」
→しんどいから今解決したいんだ

「きっと乗り越えられるはず」
→辛さをわからないくせに無責任

仕事を代わりにする
→自分は仕事ができない無能だ

具体的に解決策を考える
→人の問題に首をつっこまないでほしい


など、助けようと思ってかけた言葉や行動がすべてマイナスにとらえられてしまいます。
時間が解決するとか乗り越えられるとかは、相手の能力の高さを見て、本当にそう思っているからこその言葉です。能力を見て乗り越えられないだろうなーって思ったらすぐに辞めることをすすめたり、向いていないんじゃないかという話をやんわりとする気がします。


でも、時間が解決するとか、乗り越えられりはとか、うつ状態に近く辛い状況の人には言ってはいけない言葉なんだなと学びました。
他人の助言を受け入れるエネルギーがないんですよね。私もかつてそうでした。
あの時は心配してくれた人たちに心ないことを言ってしまい申し訳なかったと思います。


あと、特に声はかけてないけど、実は心配してたという人たちが後できいたら沢山いました。
直接お礼はできないけど、その人たちのおかげで今の自分があるからずっと感謝しています。


私自身は時間は状況を悪化させるだけで、1番ひどかったのは環境が変わる直前でした。つまり、環境を変えるしか解決方法がありませんでした。結局、環境を変えるか自分の考え方を変えるしか方法がない気がします。周りの助言程度では何も変わらないのかもしれません。



確かに私は私をよく知る友人が言うように、それを支えられるほどの強さはないんですよね。

この仕事をしている限りは、それでも強くならなきゃ、早く強くならなきゃ、とこの1年、いろんなことを頑張り続けてきました。
毎日noteに振り返りを書いたり、心理学を勉強したり、セミナーに参加したり、本を読んだり、運動したり。


でも。


昨日、たまたま行った京都の鈴虫寺で説法をお聞きする機会があり、その中で
「ありのまま」というお話がありました。

アナ雪のイメージが強すぎますが、仏教の考え方、特に禅宗で大切にされている考え方らしいです。

ありのままを受け入れ
それにとらわれない心


禅のたいせつな心をあらわした言葉に「心は鏡のごとく」があります。 鏡は美しいものも汚いものも、大きなものも小さなものも、すべてをそのままの姿で映します。ありのままを受け入れます。決してそのことにとらわれることはありません。

禅の世界では、鏡のような心の持ちようこそがとても大事だと考えます。
私たちは、日々起こるさまざまな出来事や人との関わりにおいて、心がとらわれます。
時には自分を見失うこともあります。
しかし、鏡が映すごとく、すべてのことを人生のひとこまとして鏡のように受けいれ、そして、とらわれない心を持つことが禅の世界では大切なのです。

東光寺 ウェブページより

過去に失敗したこと
理想通りいっていないこと
不満に思っていること
自分の思い通りに行かないこと

いろいろありますが、他人と比べず、自分に対する評価や肩書や地位にとらわれず、自分の欲のままに生きず、
今いる自分のありのままを受け入れ、利他主義、つまり他人のこと思い、他人のために尽くせば、きっと光がさすだろう。


というお話だった気がします。


ここ1年ぐらい、強くなろう、魅力的になろう、人から好かれるようになれうと思いすぎて、多方面に手を出しすぎて、ちょっと疲れてしまっていたようで、

お話がとても心に染み、涙が出てしまいました。

人を助けられなかった自分が本当に悔やまれて苦しくて、自分を強くするために走ってきた1年でした。多少強くなったとは思いますが、不安や悲しみはまだまだかかえたままだなと思います。
そういう意味で、実際に時間は全然解決してくれてません。

強くなりたいとか、より良い自分でいたいと思うのはよいことですが、そう思えば思うほどより辛く悲しみをかかえることになるので、


ちょっとたちどまって、人を救おうとした自分も救えなかった自分も含めて、すべて受け入れてありのままの自分が素敵だと思えたら良いと思います。

最後に余談ですが、強くなりたいとか悲しみがとか書いてたら、鬼滅の刃の「紅蓮華」を思い出しました。
紅蓮華も仏教用語なんですね。
そのあたりからインスピレーションを受けてるのかなとも思いながら、

紅蓮華の歌詞も今の私になかなか響きました。


「イナビカリの雑音が耳を刺す 戸惑う心
優しいだけじゃ守れないものがある? わかってるけど」

「逸材の花より 挑み続け咲いた一輪が美しい
乱暴に敷き詰められた トゲだらけの道も
本気の僕だけに現れるから 乗り越えてみせるよ」


ありのままの自分を認めることと、強くなり乗り越えていこうとするのは一見矛盾するような気がしますが、


うまく行かなかったり、失敗したり、苦しかった過去の自分も含めてすべてを、ありのままを受け入れることで、また人は強く、成長するのかと感じました。


苦しい状態の人に、「乗り越えた姿も見てみたい」と言ってしまったことがあります。
決して言ってしまってはいけなかった言葉だし、
相手を傷つけてしまった気がして、めちゃくちゃ後悔しています。

だけど、紅蓮華の歌詞のように
トゲだらけの道を乗り越えて
「挑み続け咲いた一輪」は、もう最高に美しかっ
たんだろうなって今でも思います。
尊敬する人だったからこそ、本当に見てみたかったんです。だから、ぽろっとその言葉が出てしまいました。






挑み続けて咲く姿を実際に見れないのがこの仕事の苦しいところだと思いますが、美しい一輪が咲くことを願い応援し続けるのが自分たち教師の役目なのかなと思います。


話がちょっと脱線しましたが、
過去の苦みも含めて「ありのままを受け入れ、とらわれないようにする」

もちろん、苦しみのど真ん中にいるときにはできないと思いますが、今みたいにちょっと前を向けるようになった時に、そのように考えてみようと思います。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?