渋谷スクランブル交差点と僕たちの心理 # シロクマ文芸部
ありがとう。
大切なことをあらためて気づかせてくれた同僚。
先日、職場の同僚と、「東京に旅行でも行きたいなぁ」と話していたところ、同僚が、「渋谷のスクランブル交差点って1回に渡る人数が1000人いるらしいよ」と言ったことに驚いた。
実際に行ったことがあるが、規模は思いの外、小さかったものの確かに人の数は凄まじかった。
しかし、驚きと同時にある種の不気味さも感じたのだった。
こんなにたくさんの人がいるのに、誰一人としてその名前を知ることもなく、その人固有の喜びや哀しみも知ることなく、一生他人のまま別れる光景。
性格は顔に出る。本音は仕草に出る。感情は声に出る。そうした非言語の情報にすら触れることのできない日常と非日常が重なったような空間。
その空間の中では僕は1/1000の存在でしかない。
僕が他のおびただしい数の人1人1人に関心が持てないように、他の人々も僕に関心を持つことはほとんどない。
***
「◯年に1回」、「◯人に1人」という言葉は、人々の現実理解への関心を弱めていく作用がある。
少なくとも僕はそう思っている。例えば、
2011年の東日本大震災。
今なお癒えることのない傷を被災者に負わせた未曾有の大自然災害だった。
この時は「100年に1度の大災害」という表現が報道等で用いられ、その言葉を僕たちも当たり前のように受け入れてしまった。
この言葉は東日本大震災が被災者に与えた被害の甚大さを僕たちに想像させるとともに、「もう当分、起こらない大災害なのだろう」という印象も社会全体にもたらせてしまったのではないだろうか。
また、自然災害でなくとも、「1000人に1人の確率で出会う事故」に巻き込まれた人という表現なども耳にすることがある。残りの999人の人は決して遭遇しない事故であることを強調するかのような表現に僕には聞こえてしまう。
さらに、「10000人に1人しか発生しない非常に珍しい病気と闘っている人」との表現は否応なく僕たち1人1人の「自分も同じ病気にかかるかもしれない」という当事者意識を薄めていく。まるで自分とは違った世界の話を聞いているかのように。
これらは言わば「表現の無責任」と言えるかもしれない。つまり、分母を大きくすることで、「実際には滅多にそんなに怖ろしい事態に遭遇するものではないですよ」と人々を安心させる作用を持っているように思えてならない。
ところが言うまでもなく当事者や家族や遺族にとっては「滅多に起こらないこと」、ではなく、「現実に起こっていること」なのだ。
分母がいくら大きかろうとその事実や苦しみは目の前に存在している。
僕が経験した阪神大震災がまさにそうだった。
大都市直下型の地震としては「100年に1度の大震災」としきりに喧伝されたのが神戸の人々にとっては悔しかった。
幼稚園の時に仲の良かった友達、兄のクラスメートなど、身近な人も数多く亡くなる一方、世間は日に日に「滅多に起こらない、自分たちの日常生活とは直接には関係のないもの」としてこの震災報道を見るようになった。
阪神大震災の人々の記憶からの風化はとても早かった。せめて風化だけはさせまいとする神戸の人々の必死の思いに強烈にダメージを与えたのが、犯罪史上に残る、2ヶ月後に起きた「地下鉄サリン事件」だった。
連日、オウム真理教関係の報道がなされ、震災報道は目に見えて少なくなった。神戸市民1人1人が背負った特別な想いは、犯罪史上に残るテロ事件という数値化できない人々の圧倒的関心という分母の力に押しつぶされた。
その神戸にもうすぐ約30回目の鎮魂への祈りが捧げられる。約30年経った今でも毎年、慰霊碑に書かれた犠牲者の名前をなぞりながら泣いている方の姿が地元紙に載っている。
確率を表す数字。
少なくともこれらは、ごく大まかな見当をつける上では役に立つものではある。
ただ、忘れてならないことは、既に書いたように、もし何かが起こった時は、当事者等にとっての分母はその数に関係なく、分子の「1」と同じになるということ。つまり1/1となるのである。
だから「1回」や「1人」を気軽に扱うことは極めて危険だ。いつ自分や周囲の人がその「1回」や「1人」になるか分からない。
決して分母の数ばかりに惑わされてはいけない。
分母は数字でも分子は数字ではないのだから。
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