一粒の麦 能登部 直美
父が九月に膵臓癌でこの世を去った。
その日の朝に母から「今日は体調良いよ! 痛み止め飲んでないよ」と報告を受け安心していた矢先の事であった。急ぎ函館の実家に向かい父に再会したが、死んだという実感が全く湧いて来なかった。寝ているだけとしか思えなかった。ただ一つ違ったのは、寝ている時も痛みで眉間に寄っていたシワが全くなかった事だ。私は痛みがない穏やかな寝顔をただただ見つめた。
父の癌が分かったのは昨年の秋。「長くて六ヵ月」と突然命の期限を突きつけられた父はその場で失神し、その時咄嗟に母は椅子から倒れる父を必死に支えた。この日から母は最期の時まで片時も離れず支え続け、私は深い夫婦の絆の強さを見る事になった。
死は誰にも平等に来る。そして一人一人その旅立ちの日というのは決まっていると思う。
過去に私は大切な人の命の灯が消えようとしているのに、治療法を探し求めてばかりで傍にいず、特別に伝えたい感謝の言葉も、それを伝えるとまるで最後の別れをするようで絶対に口にしたくなかった。生にしがみつき変えられぬ運命に抗い続けた。
死というものを恐れることなく客観的に受け入れる事が出来ていたら後悔は残らなかったのだと思う。そのような思いを胸にし、出来るだけ父との時間を過ごす為、静岡から函館に通えるだけ通った。
ある方からルルドの水を頂き、その尊い水を母が自分の祈りをもって人差し指で父の額に毎日つけ、父は無言で母に身を委ねていた。そこに流れる愛を私は眩しく見ていた。余命宣告から半年後、父が趣味でやっていた革細工の個展を開催し、来てくれた友人全てに挨拶ができた。私は父とその喜びに満ちた時間を共に過ごす事ができ感謝の気持ちが溢れた。
その数か月後、父から習い一緒に革細工の小さな靴を作った。この時は痛みを薬で抑えながらも一生懸命私に教えてくれた。それから二週間後、母の腕の中で父は旅立った。癌と告知されてすぐに父に書いた手紙に「……生きる時までお父さんらしく生きてください」と書いたが……まさにその通りの父らしい生き方、去り方だった。
葬儀の時……いつもはお坊さんの後ろ側に座っている父が、前で横になっていてお経をあげられていた。もう父はこちら側にはいない。あちら側なのだ。父の死を確認し受け止めた瞬間だった。葬儀は故人の為ではなく残された者の為に行われる事だと深く思った。
数年前、静岡のかなの家に父と母を招待した。まどい作業所で父の革のワークショップを開き、皆で革のストラップを制作し、私の住むグループホームに泊まって皆で食事をした。
父は、なかまの小野田さんの紹介によって穂純さんを社長と思って穂純さんの側に行き九十度腰をまげ「娘がお世話になっています」と挨拶し、穂純さんは「はいー」と答えてくれた。その光景は今でも忘れられない。その縁もあって、病気になってからなかまの政一さんやかつみさんは毎日父と母の為に祈りをしてくれた。
仏教を信仰に持ち毎日熱心に仏壇に手を合わせ、亡くなって仏になった者に対して供養の祈りをする母は、数日しかあったことのない父の為に祈ってくれる事を聞いて驚き号泣した。未だに……二人は祈りに父の名を入れてくれている。
強くて大きな存在の父。その父に大いに頼っていた私達家族だったが、父を失ったことでそれぞれが自立しそれぞれが互いに支えあう事ができるようになろうとしている。十一ヶ月の間、病める父と共に生き、苦しみ、命を感じ、見送った母は「後悔がない」と言い切った。私はそこに自分の思いも重ねる事ができた。
旅立つ日の朝、久しぶりに父はまれにみる元気さで、晴れ晴れとしたとてもいい顔をしていたそうだ。それを聞き思った。自分の持っている命の力をふり絞って、いつもの父でお別れしたかったのだろう。
死には、エネルギーの源があると思える。それは生きていく人を前に動かす力にも、変化させる力にもなるのだと思う。
最後に、かなの家のお祈りの時間に歌われる「ひとつぶのむぎが」という歌に何かの繋がりを感じたので載せます。かなの家の日々の生活の中で祈る時間がある事に感謝です。大切な人達の為に祈ります。
♪ ひとつぶのむぎが、ちにおちてしねば、おおくのみをむすぶ。いのちのみをむすぶ
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