見出し画像

雑記:8月15日に思うこと

父は大正生まれで 大正 昭和 平成と3つの時代を生きた。
小さいころ 父は私を遊びに連れ出してはくれたが、もっぱら蝉とりとか、釣りとかが中心だった。父は、男の子の遊びしか思いつかないようだった。

川釣りに行くときは、自転車の後ろの荷台に乗せられた。
父の腰回りには手が回らないため、ベルトやシャツをしっかりにぎりしめて、父の背中にしがみ付いて乗った。そしてその背中に耳を押し付けて響いてくる父の声を聞きわける。
砂利道が多く自転車で通るとゴトゴト揺れるたび、荷台の私はおしりが痛かった。

やがて川の近くに来る。河川敷にぎっしり、所狭しとバラックの立ち並んでいるのが見えてくる。
未だ終戦後が垣間見えているような、そんな時代だった。




母は昭和の生まれで 昭和 平成と2つの時代を生きた。
小さいころには母の実家によく泊まり、叔父 叔母が居て、よく相手をしてもらった。
母のすぐ下の叔母は夜寝る前に布団の中で、何度か空襲のときの話を聞かせてくれた。空襲にあったとき、叔母は12、3才だったはずである。

空襲になったら「おじいさんの家まで逃げよう」ということになっていたらしい。「おじいさんの家」は歩けば1時間半くらいはかかるかもしれない。
とにかく歩くか走るしかない。
そうやって みんな散り散りになりながら逃げた。
ところが田舎の細い道を進んでいると、なんと牛が寝そべって道をふさいでいたと。
それでどうしたのか、私は聞いたと思うが忘れてしまっている。

祖父(私の)は逃げるとき、とりあえず玄関に出してあったものを抱えて逃げたそうだ。
暗い夜道を逃げてたどり着いたとき、抱えていたものを見たらひとかかえの蚊帳だったと。



母はそのころ、山間の学校に代用教員として赴任していた。
なので空襲にはあっていない。
だが母は見たと言っていた。
松山市の方向の空を見ると、夜の空が真っ赤になっていたと。

その空襲の翌朝になって、一番下の叔母が母のところまで山を登って逃げて来たそうだ。
しっかりと防火用のバケツだけを握って。
今は道も整備されて、車で1時間弱のところではあるが、普通、歩こうと思う距離ではない。そのときの叔母は10才か11才くらいではないだろうか。


何十年か経ち、その学校の近くに美術館ができたらしかった。
友人に誘われて、その美術館で演奏会を持つ機会があって、友人はオカリナを、私は歌を歌った。

美術館から見上げた斜面の上に小学校が見えていた。それは新しい。しかし かつて母が赴任して行き、そして父が教員として働いていた学校だ。

父と母はここで終戦をむかえたのだと、しみじみ思った。
そして玉音放送もここで聞いたのだと。
そのとき、それを如実に感じたのを覚えている。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?