【小説】いたみおとこ
今日も電車で、俺は最後尾の車両のいっちゃんはしっこの席を確保することに成功した。
席に座ったら、すぐに寝る。スマホなんか見ない。座っていられるのは6駅。ていうか、6駅で俺の住む家のある駅につく。寝過ごしたことは一度もない。
しばらくすると、へんな気配で目が覚めた。電車は止まっていてアナウンスが3つ目の駅にいることを告げているところだった。首を90度に曲げたまま薄目を開けると、擦り切れた黒の革靴が、踵を上げたり下げたり左に左にずらしたりしているのが見える。俺の前に立っている乗客の足。独立した生き物のようにせわしくなく動いている。この人トイレに行きたいのかな。それとも社交ダンスでも習っているのかと俺は笑いたくなる。
あと少し我慢すればお前だって座れるんだからね。こっちはたったの6駅座るためだけに、わざわざ一本やり過ごしてホームに立っていたんだって。
顔を上げて革靴の主の顔を見ようとしてやめた。 視界のはしに入るきれはし程度の残像から想像するに、おそらくはスーツを着た中年男。
電車が駅に着いて、いつもなら、早めに動いてさっと席を交代するのだけどなんとなくこのクニャクニャが厭わしくて、俺は乗客が動き出してからようやく席を立つ。ダンス男がつり革を軸にしてぐらんと後ろに逸れたので、その肉体をよけるようにして座席から離れると、男はすべりこむように席におさまる。なんだか膝の上に乗られたみたいで気色悪い。
ホームを歩いた。俺の前をぞわーっと人が歩いて、階段に吸い込まれるみたいにあがっていく、俺はそのしんがりをだらだら移動する。
前を歩いていた女が異様に遅くて、いったん鞄をホームの椅子に置き、女が階段の中断くらいまであがってから歩き出そうとしたら、腹にいやな感じが起きた。
俺は椅子に座った。腹はますますいやな様子を増して動けない。目を閉じたら、頭のなかにホームでうなだれている俺自身が浮かんだ。腹の中に、紫と茶色と緑を混ぜたような色のインク瓶がある。
なんだこれは。なんともいえない色だな。この腹の感じと、こいつがなにか関係してるのか。
瓶がふらりと倒れ、中からインクが流れ出した。入り混じった液体が俺の腹から胸へと広がっていく。いやな感じが、一気に痛みにかわった。
昼に何を食べたっけ。会社の近くの定食屋で冷やし中華だ。薄い色のハムに赤い色のトマト、錦糸卵。甘くて酸っぱくてしょっぱい、同時にみっつの味が押し寄せる食べ物。ただこの痛みは、食中毒とかとは違う。
そのうち、腹だけじゃなく胸も痛みはじめた。インクはどんどん染み出して、胸、喉へと上っていく。痛いからこんな想像をするのかと、目をそらそうとしてもできない。
バス停の時刻表、シャツに飛んだ醤油の染み、今月の残高、チンジャオロースに入ったくるみ、少しずつ少しずつせりあがるタクシー料金、みんな嫌いなだけど、凝視してしまうもの。
痛みは喉から左右に分岐し、顎を伝い耳の後ろを通って頭のてっぺんで合流する。椅子からずり落ちて、うずくまる。格好悪いと思ったけど耐えられないのだ。
ついさっきまで乗っていた電車が轟音を立てて目の前を通り過ぎていく。駅員に声をかけられる前になんとか立ち上がろうとした俺の視界に、いきなりにゅうっと、でかい顔が入り込んだ。
痛みと驚愕って、どっちが上回るかといえば、おそらくはどちらでもなくて恐怖だ。恐怖がこの世の上位。俺はめちゃくちゃにぞぞけだっていた。目の前にあると思った顔は電車の中にあって、最後尾のさっきまで自分が座っていたところにいた。にゅうと顔を突き出て大きくなる。そのうち窓ガラスいっぱいに広がって、ガラスが割れて顔ごともげてホームに転がってくる。
全身が痛みを受け止めるスポンジみたいになっていた俺だが、なんとか転がってきた顔をよけることはできた。
電車が走り去る。ホームには俺と顔だけ。
終電には程遠い時間なのに、驚異的に暗い。というのは、空気感が夜の中のそのまた夜なんだ。
ひろがりきった顔が、ぱちんとはじけて割れる。俺のところにはしっこがとんでくるんじゃないかと思ったけど何も飛んでこず、かわりにというか何かが胸の奥からずわわわわ、と掃除機に吸い上げられた。
ずわわわ、ずううう。
インクか?顔か?とにかく何かが頭のてっぺんにむかって抜けて、痛みが消えた。
それから毎日のように男と会うようになった。今朝の電車で男は俺より先に乗っていて、目の前に座っていた。男を見た途端、腹の中でインク瓶が現れた。瓶が倒れると痛みが起きた。
「あたしだって好きでやってるわけじゃないんですよ」
男が口をきいた。ねとつくような、それでいて高い声。
「んあ?」
「そもそもあんたが間違ってるんです」
言い返せない。つり革にぶるさがっているのがやっとだったが、駅に着いて他の客に押し流され男の姿が見えなくなったとたんに痛みも消えた。よろけながら歩き出した群衆の合間に、男の姿がひょこっと見えると、また喉が痛む。消える。痛みが消える。やつの腕だけが出る。すこし痛む。消える。現れる。痛い。消える。
あいつは、いたみおとこ。そう名付けた。痛みをもたらす、いたみおとこ。全部ひらがなのはその方が馬鹿っぽいから。
あいつが消えると痛みは消えるのだけど、そのあとが猛烈に眠い。しかも、うっとりと眠い。いま寝たら、すごく気持ちがいいんだろうなあと思う。疲れて寝るんじゃない。夜になって寝るんじゃない、眠りそのものが生きているっていうことで、最高で至高の目的だから眠るんだ。だが、これから仕事というときに眠れるわけがない。
耐えられなくなって、俺は具合が悪いと嘘をついて家に帰ることにした。
電車に乗るが、最終尾は避ける。いたみおとこはいなかったが、ホームに降りて歩いていたらやたら動きのおそい女がいる。なんだあれ、と思ったらいつか痛みにおそわれていたときに前を歩いていた女だ。
「あなた騙されてる」
振り返った女は、出し抜けにそう言った。
「は?」
「ていうか、騙されるところだから」
「いったいなんのこと…」
「あいつがやってくるから、用心しなさい」
部屋で布団を敷いていたら、ノックの音がした。
会社の誰かが心配してきてくれたのか?ノックは三回、コツコツコツと続いたが、無視した。数秒して、また三回続いた。
しかたなくチェーンをかけたままドアを開けると、相手もすこし後ろに下がったようで姿は見えない。でも足が見える。靴を見て、いたみおとこだってことはすぐにわかった。キッチンに行き包丁を手に取り、チェーンを外すといたみおとこが入ってきた。
ゆで卵みたいにツルツルした顔だな。はれぼったいまぶた、やたら高い鼻、長くて方向の定まらないまつ毛。間違って書かれた画数の多い漢字みたい。
「暴力はいけません」
いたみおとこは包丁を持った俺の右手をじっと見て言った。
「訳を話しますからそれをしまって」
「人を痛くするのに正当な訳があるのかよ」
そう言いながらも、 俺はすぐ取れるところに包丁を置いた。
「あなたが間違ってあたしの体の中を歩いているんですよ。だから、なんとかやめてもらいたくて痛くしていたんです」
「体の中を歩いている?意味がわからない」
「電車であんたがわざとぎりぎりまで座っていてこれみよがしに降りようとしたときに、こっちの体に入り込んだんです。あたしはあんたの家じゃないんで」
「意味がわからない」
と、俺は繰り返した。
「あのとき、もっとすんなり席を譲ってやればよかったとでも?」
「まあそうです。でも、あんなのはめったにないことなんでね」
男は語る。
あたしの身体にはずうっとあの瓶があるんですよ。でも、あんたが毎回瓶を倒すもんだから。あんたはいたい。いいえ、あたしはいたくないです。でも、瓶が倒れて中身が減ると…いえ、自分でもよくわからないんです。よくわからないけど何かが変わる。何かがなくなる。かわりに何かがやってくる気がする。それとも何かが見ているのかもしれない。あるいは何かがあたしを憎み始めるのかもしれない。それとも誰かの同情を無視しているのかもしれない。あるときは引き出しに何かがあったりする。だけど見えない。とにかくわからない。あたしはだからあの瓶を後生大事にしてきたのに、あんたがどれだけ倒したことか。
そう言って泣くのだ。おっさんが。俺は参ってしまった。同情したというよりも、眠くて仕方ない。もうなんでもいいから眠りたい。でもこのまま眠ってしまったらどうなる?こいつにまるごと身体を乗っ取られるのか?いや、俺がこいつの中を歩いているんだっけ。ふと、女が言っていたことを思い出した。俺は騙されている。
「そんなこと言って、俺の身体を乗っ取るつもりか。それともなんかの詐欺か。この薬が痛みに効くとかなんとか」
「あの女になんか言われたんですね」
「知っているのか?」
「最初にあの女が現れて、瓶を入れたんですよ」
「別れた女なのか?」
「まあ、そうですね」
「痴話喧嘩かよ」
「それがそうでもない。たんに別れた女なんです。知らない女なんだけど、別れた女なんです。それどころか、女ですらなくて別れたものなんです。すべての」
「はあ…メタファーとかいうやつかよ」
「そうかもしれない」
俺は再び包丁を握った。
「あっ、何をするんです」
「違うよ」
俺は冷蔵庫からマグロのサクを取り出して切った。それから酒を出した。
「瓶のなかに、新しい液体を入れればいいんだよな?ぜんぶ満たされたら、俺が出ていける、と」
「そうかもしれませんが…どうやって?」
「想像で入れるんだ」
「どうやって?」
「いちいちうるさいな」
それから俺達は、朝までぐでんぐでんになるほど呑んだ。そして話をした。どうでもいい話だけ。すべてのこの世界のどうでもいいを集めた。そして泥のように眠った。
目が覚めると、いたみおとこの姿はなかった。あれから一度だけ最後尾の電車に乗ったけど、俺は座らなかった。いたみおとこは乗ってこなかった。
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