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【小説】眠れない部屋

「眠れない部屋」

 眠れなくなってから、ずいぶんになる。
 ストレッチとか瞑想とか、眠るためだけにやっているのかと思うとなんだか腹が立って、俺は思わずベッドの上で大の字になってうなってしまう。
 どうせ眠れないのなら、頭の中に自分だけの部屋をつくりだして、そこでだらだら過ごしている自分を想像して楽しむほうがいい。
 最初はどでかくて豪勢な家具がならんでいる部屋にしたんだけど、いつも同じソファで寝転んでいることに気がついてやめた。試行錯誤のすえに出来上がった部屋は、寝室とリビングとちいさい書斎があるだけだ。たまに好きな本をとりに行くぐらいで、書斎にはめったにいかない。ベッドはでかくて、すぐそばに炬燵があって、目が覚めたらぴゅんっと潜り込める。部屋はなぜか一年中真冬設定だから、炬燵も一年中暖かい。リビングには毛足の長い絨毯、ガラステーブルの前にどでかいテレビがあって、めちゃくちゃたくさんドラマが見られる仕様になっている。キッチンは小ぶりだけど、冷蔵庫にすぐ食べられる野菜と果物と肉とかチーズとか入っているし、棚にもインスタントものと菓子とジュースがたんまり揃ってる。

 俺が部屋でやっていることは、菓子を食べてドラマを見るとか炬燵で本を読む程度で、あまり今の暮らしと変わらない。というのも、この部屋にいるとすぐに眠たくなってしまうからだ。
 毎晩部屋がどんどん理想に近づいて、リアルになったせいで不眠から開放されたということになる。
 ってことを俺は、不眠症に悩まされている友達に話そうとして、やめた。
 友達はすごくいい奴だし、かなりつらそうだったけど、あの部屋は俺の頭の中だけにあって、誰かに話したり絵に描いたりしてはいけない気がしたから。かわりに俺は、夢の中で空を飛ぶ方法だけ教えてやることにした。
「へえ、それってどうやるの?」
 それすごくおもしろそうだねと言って身を乗り出してきた友達を見て、俺はちょっと申し訳ないなと思いつつ、答えた。
「おまえの家の近くに、でかい水泳場があるだろ。国際大会とかやってるような」
 グーグルマップをつかって、その水泳場のことはくわしく調べてあった。
「あるけど、それが夢と関係あるのか?」
「そこに水深の深いプールがあるんだ。たしか二メートルくらいのやつ」
 友達は不思議そうな顔をしつつも立ち上がると、台所に行き、冷蔵庫の扉を開けて缶ビールを二本持ってきてくれる。
「おまえ、泳ぎは得意だったよな。あのプールで泳いだら飛ぶ夢を見られるようになるよ」
 ビールを飲みながら俺は説明をする。
 そこは普通のプールより水温が二、三度低く設定されているせいか、水が青くて透き通っているし、いつも空いていることもあって遠く深くまで水の中が見渡せる。ゆったりもぐっていると、だんだん飛んでいるような錯覚を起こす。それを繰り返していたら、ある日飛ぶ夢を見た。最初は一メートルに満たない段差からゆっくり飛び降りる感じだったが、いまではアパートの二階くらいまで行けるようになった。

「ま、人から聞いた話だけどな。俺はカナヅチだからさ。飛べるようになったら、眠るのが楽しみになって何か変わるかもしれないよ?」
 
 それからしばらくして、俺がいつものようにあの睡眠の部屋(俺はそう呼んでいる)にいたときにそれは起きた。いつもは窓の外なんか気にしたことがなかったのだが、あの日の俺は、なぜかふと立ち上がって窓を開けようと思ったんだ。カーテンをゆっくり横切っていく、雲の影が見えたせいかもしれない。
 考えてみると外を見るのは初めてだった。
 部屋から見た空は晴れぐもりくらいの感じで眩しくも暗くもなかったんだけど、実際にはよく晴れていて、雲はひとつもなかった。低い屋根の家が並んでいるのを見下ろして、この部屋はけっこう高いところにあるんだと俺は思った。遠くに大きな橋が見える。
 しばらくそうしていたけれど影の正体はわからず、俺はその夜、なかなか寝付けなかった。
 翌日も同じことが起きた。外を何かがよぎる。テレビを消してカーテンを開けるものの、なにもない。すっかり、不眠に逆戻りしてしまった。

 いっそのこと、新しい部屋に引っ越そうかと思い始めたときに、友達から電話がかかってきた。
「俺、飛べるようになったよ」
「え?」
 正直言うと、俺はその話をすっかり忘れていたんだ。もう何日もよく寝ていなかったせいか、頭が重くて身体がだるい。
「最初は地面をこすってたくらい低空飛行だったけどな。いつも泥だらけになってたけど、いまは結構な高さまで飛べるようになったんだよ。それでこのまえ、どっかのマンションの部屋にぶつかったんだよ。三階建てくらいの高さのね、カーテンが開く気配がしてあわてて地上に降りたんだけどさ」
「そうか…」
「どうした?元気ないな」
「そんなことないよ。それで不眠症はどうした?」
 そう尋ねると、しばし友達は黙っていた。
「俺、不眠症なんて言ったっけ…。そんな経験、今まで一度もないよ。横になるとバタンキューだもん。でも、夢は見たことなかったから、今は飛ぶのがすごく楽しいよ。遠くに橋が見えるんだけど、あそこまで行くのが楽しみなんだ」

 それから俺は、スイミングスクールに通っている。やっと息継ぎを覚えたところだけど、はやく水深の深いプールで泳がなきゃいけないと思ってる。どうしてだか、あいつのことが心配で仕方がないんだ。毎日部屋から窓を開けて外を見ているけど、あいつは楽しそうに飛んでいて、俺に全く気づかない。この前ついに、橋の上に立っていた。
 そのうち、空の彼方にいってしまいそうで怖い。


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