コロナ禍前のブログ。新しい時代を生きる子どもたちへ、大人ができること(1)
久しぶりのブログです
何年も前、書いていたブログ。閉鎖されてしまいました。
書くことが得意ではないけれど、やはり何か記録を残しておきたいと思い、「教育」に関するブログを立ち上げることにしました。
「教育」に関する仕事をし続けたいと思いつつ、子育てが「教育」の一番の実践の場だと考え、子育てと両立しやすい仕事にシフトしました。
両立するには、ずっと同じ仕事を続けることが難しく、いろいろな仕事を短期でつないでいる状態。
でも「教育」に関する仕事がしたいという気持ちも残っています。
ブログを書きながら、このモヤモヤした気持ちが晴れればいいなと思います。
人生にマニュアルなんてない、自分自身の人生を生きよう
世の中にはAならBだ、CならDだというような文言が飛び交っています。
例えば、「子どもに英語を習わせるなら早い方がいい。早期教育がカギだ」とか。
「子どもが習いたいと言った時でいいよ、遅くても大丈夫だよ」というのはあまり聞きません。
それはそれで悪くはないんだけれど、AならEだと思う人もいるし、CならFでもGでもいいかも、と考える人もいます。
同じ文言をいろいろなところで見聞きしてしまうと、それが社会の常識だと思いこみ、慣れてしまうと、まるでロボットのように瞬間的にそう反応してしまう人もいます。
逆に、自分の考えとの違いに悩む人も出てきます。
違ってていいんです。全員が同じやり方、考え方をしていたら、ほんとロボットか軍隊ですよ。
でも、AならBだと思ってしまう人が多い。これは学校教育の影響があるのではと思います。学校では、基本的に答えは一つ。一つの方が授業としてまとめやすいから、先生が採点しやすいから、集団行動がしやすいから…。
まじめな人は特に悩みます。悩みすぎて健康を損なう人も出てきます。
今の時代、そういう人が多いのではないでしょうか。
少数派の存在も尊重してもらえる世の中になってほしいです。
乱読のすすめ
私は元々本が好きだったようです。
遊ぶ相手がいない時は、家にある本をよく読んでいました。小学校でも本を何冊借りたか友達と競い合っていました。
しかし、中学生の頃、視力が悪いのは読書家だからだとか、勉強家だねって言われるのが嫌で、本を読むのをやめてしまいました。国語の教科書も嫌いでした。答えを考えながら読むのは好きではありませんでした。
新しい情報は本より雑誌だと思い、しばらくずっと本を読まない状態が続きました。
学生の時も、必要最低限の本しか読みませんでした。ベストセラーの本にも興味がありませんでした。
それでも、本当に「興味のある」本はたまには「買って」読んでいました。
私が本当は読書好きだったんだと気づいたのは、子育てを始めた後。
ある講演会で、お母さんももっと本を読んで勉強した方がいいというようなことを聞きました。
それからです。まずは、家から一番近い図書館に行ってみようと思い立ちました。
タイトルを見ながら、読んでみたいと思うものを片っ端から読んでいきました。「買わない」で「借りる」だけなので、お金がかからない。私の読書欲はどんどん膨らみました。世界が広がる楽しさを知りました。私には知らなかったことがまだたくさんある、今まで疑問に思っていたことがすんなり解決した…など。
これを続けたら(もちろん時々ネタ切れで読まない時期もありましたが)、ある日突然、「点と点がつながって線になる瞬間」がやってきました!
知らなかったことがわかり、さらに深く理解できる。単なる「情報」では、なかなかこういうことが起きません。その時はスッキリしても、すぐに忘れてしまいます。
人生100年時代、読書はオススメです。
興味があるものなら、ジャンルは問いません。バラバラでいいんです。それが突然「キター」となった時、世界が違って見えますよ。
現在の学校の現状
自分の子どもを学校に通わせていろいろ思ったことがあります。
小学校低学年の時は、自分より年上の先生が多く、落ち着いた環境でした。自分の小学生の時と変わらないことの安心感と、時代は変わっていくんだなあという期待感がありました。
しかし、高学年になると、若い先生がすごく増え、まるで別の学校になったようでした。びっくりすることもありましたが、時代の流れだから仕方ないかと思っていました。
頭の中に疑問符が増えたのは、公立中学校の説明会から。小学校は変わってきたなあと思ってたのに、自分の中学生の時とあまり変わらない校則や環境に、親の方が不安になってしまいました。
受験することを選択しなければ、自動的に地元の公立中学に行くことが決まります。
でも、同じ市内でも学校によって校則や環境が全然違うのに、学校はもちろん先生も選べません。
そして入学後に知ったのは、進学先(高校)もある程度決まってしまい、上位の高校に行くには相当な努力が必要なこと。(塾に行くことも含め)
勉強より部活に重点を置いていること。(しかも少ない選択肢から選ばなければならない)
不登校の子どもが結構な割合でいること。
外国にルーツを持つ子どもが(親も)たくさんいるのに、特に対策が立てられていないこと…などなど。
今の公立校って…いろいろ考えさせられてしまいました。
だから、私立中学受験する人が増えているんですね。(私立中学に問題点がないわけではないと思いますが、選択できるという点ではいいですね)
学校の先生も忙しすぎて余裕がなく、目の前のことを片付けるのに精一杯なんですね。
だとしたら、学校のシステムを変えるしかないのでは?
義務教育という言葉がある以上、すべての人が教育を受けたことがあるので、一般の人も知っているつもりになってつい意見したくなります。
でも、自分が教育を受け、先生という仕事も経験し、さらには自分の子どもができて、子どもを育て、親の立場で学校を見て…といろいろ経験しても、学校教育の問題点や現状のほんの一部しか知らなかったことに、今頃気づきました。
「人の気持ちを考えて行動しろ」とよく言われますが、人はなんて自分本位で過ごしていることか…
いつか孫ができる頃までには、いい方向に向かっていることを期待して、何ができるか考えたいです。そして、考えるだけでなく、少しでも行動に移すこと。他の人もいい意味で巻き込むこと。これが、私の今後の課題です。
これからの時代に重要なスキルは…
今の世の中は複雑ですね。モノやコトの選択肢が多すぎて、どれが一番いいのかわからなくなります。
ネットで質問して解決できる方法もありますが、人頼みになりますし、もしかしたら、間違った情報かもしれません。
私自身は、自分でよく考えて選択するのが自分にとって一番いいモノだと考えます。
でも、この「自分でよく考えて選択する」というのがなかなか難しい。子どもの頃から習慣として身につければできるようになるのでは?
そこで考えたのが…「まず、バランス感覚を身につける」です。自分や身の回りのものと合わせてバランスが取れていれば、その人にとって一番いいことです。バランスの取れた状態を心地いいと感じること、バランスが崩れたら、どうすれば心地いい状態になるかを知ること。これができたら、困難な状況を克服して前に進んでいけるのではと思います。
自分の中のバランスだけでなく、家庭の中のバランス、学校や職場など社会の中でのバランス…全てにバランスの取れているのが理想ですが、バランスが良くないと思った時に早めに手を打つことで、解決できそうな気がするのです。
子どもの頃に身につけた習慣は、大人になってもなかなか変わりません。いい習慣を優先して身につけた方がいいでしょう。
正答は1つではない
悩みがあって早くその状況から逃れたい時、スッキリしたい時があります。周りの人の意見を聞いたり、ネットで調べたりして、答えを出したいと思います。でも、その前に一呼吸おいてみましょう。「正しい」答えを探していませんか?多数派の意見、権威ある人の意見に従うのが間違いないと思っていませんか?
私たちは「個性」を持っています。全く同じ「個性」を持っている人はいないと思います。似ている人はもしかしたらいるかもしれませんが。
悩みがないのがいいのでしょうか?悩みを持ち続けてもいいはずです。長い人生、生まれた時から死ぬまで同じ悩みをずっと抱えている人はいないでしょう。そう思えたとしても、いつかその悩みが変化していくはずです。
正しい答えは一つしかないのでしょうか?その時、その状況によって、同じ悩みでも答えは変わるのではないでしょうか。その人の心の持ちようによっても答えは変わる可能性を秘めています。誰が「正しい」と決めたのでしょうか。
自分の気持ちに正直になりたいです。心の声を聞きたいです。最終的に決めるのは「自分」なのだから。
学校って楽しいところ?
学校って楽しいところですか?
小学校低学年は楽しいところであってほしいと思います。
少なくとも義務教育中の9年間はなんらかの「学校」に行くことになるので、長い道のりのスタートは楽しい方がいいです。
何が楽しいか?友達に会える、遊べる、給食、遠足、運動会、などでしょうか。
でも、高学年、中学校、高校はどうでしょう。
楽しいと思わない子が増えてきます。それも勉強が難しくなるという理由ではなくて…
親との関わりも難しくなってくる年頃です。
本来、学校は勉強するところでした。
今はインターネットが発達していますから、知識を学ぶだけなら学校に行かなくても学べます。動画も視聴できます。塾で先取り学習をしていることもあります。学校で勉強することに対する優先度が下がっている気がします。
そして、学校には、社会の縮図とも言えるいろいろな子が集まっていると言われていました。集団生活の中で人との関わり方を学ぶために学校へ行くんだという考え方もありました。
しかし、現代はこんな考え方が合わなくなっていると思います。公立ではたまたま同じ地域(しかも狭い)に住んでいて同じ年に生まれたというだけで同じ学校に行って、集団をまとめやすくするために意図的に振り分けられたクラスで1年間生活する。しかも、受験して私立に行く子たち(金銭的に余裕ある教育熱心な家庭の子が多い)の層が抜けている。
こんな集団の中で、楽しく通える子はどのくらいいるのでしょうか?
学区に限らず、家から通える範囲内で学校が選択できるようになれば…
年齢ではなく、準備ができた段階で入学し、途中で休学もでき、一定以上学べたら卒業できる、そんなシステムになれば…
クラスや担任の先生が1年間固定ではなく、時間割やカリキュラムに融通がきくようになれば…
多様性のある集団の中で人との関わり方を学べるものがあるのではと感じます。
学校システムの改革は、孫の時代までにぜひ叶えてほしい願いです。
歴史教育を見直しては?
学校では、大昔から時系列に歴史を習っていきます。時代は前に進んでいます。授業時間数も限られています。現代まで教える時間がありません。時間切れになります。近・現代は試験に出ないからという理由で省略されます。
歴史は繰り返すといいます。現代の問題を解き明かすには、近・現代の歴史から遡っていく方がわかりやすいのではないでしょうか。
大人になってから、あることをきっかけに近現代の歴史を知って疑問が解ける、ということを何度も経験しました。なのに、今でも近現代の歴史を学校でしっかり教えないというのは、甚だ疑問です。
慣例を打ち破る、客観的に見て時代に合わなくなったことは変えていく、これからの時代は特に必要だと思います。
ありがたくない給食
私は小学校も中学校も給食でした。それなりに良かった記憶があります。
我が子の時は小学校は給食、中学校はスクールランチかお弁当持参かを選びます。(もちろん地域によって違いますね)
仕事を持っていて、料理が得意ではない場合、給食はとても助かります。1日のうち1食でもバランスの良い食事ができている安心感、家では使わない食材を食べる機会がある、温かいものを食べさせてもらえるありがたさ。
ところが、中学校に入ってからは事情がちょっと違ってきました。
ランチを食べる時間が足りないという理由でせっかく作ったお弁当を時々残してくるのです。
スクールランチの場合は、取りに行ったり返しに行ったりする時間がさらに必要です。
成長期で食べ盛り、部活があれば夜まで何時間も空くのに…
時間割を見ると、昼食時間は20分あり、さらに20分休憩時間があります。
しかし、前の授業が延長した、教室移動や着替えに時間がかかる(音楽、美術、体育など)、次の授業の準備(同じく移動・着替え等)、休み時間を利用した委員会・当番活動などで、実質時間がないようです。
さらにこの学校では、3分前着席というルールがあるため、さらに休憩時間は少なくなります。防犯のため、教室移動の時はカギをかけるというルールもあるので、カギ当番がカギを開けないと入れない、早く教室を出ないとカギをかけられないという理由でゆっくり食べていられないということもあるようです。
でも、なんとか工夫して解決できる問題ではないでしょうか。
例えば、昼前後に移動や準備の必要な教科をできるだけ外す、生徒に時間を守れというなら先生も授業時間を守り、やむを得ない場合は食事時間の延長を認める、ムダな当番や委員会活動をできるだけ減らす、など。
保護者からしても不思議な当番があります。
例えば、お茶当番。お茶の入ったやかんを取りに行って返却する、それだけなのですが、水分補給のために毎日お茶の入った水筒を持たせています。コップは持たせていませんし、持ってくるよう要請されたこともありません。どうやって飲むのでしょう?飲んでいる人はあまりいないようです。それよりも、部活前に手持ちのお茶がなくなってしまった時の補充に回してもらった方がありがたいです。
もう一つ、ミルク当番。ミルク給食の学校なのですが、米飯に牛乳の組み合わせは味が合わないなあと子どもの頃から思っていました。お弁当なら主食はほぼ米ですし、スクールランチも米が多いです。確かに牛乳は成長期に必要な栄養が取れるのですが、毎日牛乳っていうのもどうかなと思います。それに、お茶と牛乳両方用意するのも水分取り過ぎになりませんか?アレルギーのある生徒はもともと飲みませんから、いっそのことやめてみては?
初めはすべて「子どものため」に考えられたものかもしれません。しかし、あれこれ追加していった結果「バランス」が悪くなっています。時代が変わっても、変わっていません。変えないほうが楽なのかもしれませんが、何も考えず慣例に従うのは終わりにしましょう。世の中忙しすぎて考える時間がないのかもしれませんね。
人間ドックを受ける意味
毎年この時期になると、会社から受診してくださいと連絡がくる人間ドック。
私は、ある時を境に受診するのをやめました。
だからといって、何もしていないわけではありません。
なぜやめたかというと、いくつか理由があります。
1つめは、人間ドックで見逃された病気があったからです。それは私にとって重要な点でした。不審な点があったにも関わらず、まあ大丈夫でしょうという医者の言葉を信じてしまったためでした。その後、私の医療機関の受診に対する考え方が徐々に変わってきたのです。
2つめは、バリウムを飲んだ後に下剤を飲み、出さなければならないという苦痛です。バリウムを飲むことさえ苦痛(胃カメラももちろん)ですが、これに慣れたとして、余分なものが体の中にあるわけですから、早く排出しなければなりません。これが、普段ちょっとの精神状態やリズムの変化で便秘になりやすい私にとってはかなりのストレスです。かえって病気になる可能性があるのです。
3つめは、乳がん検査で要精検となったことです。結局問題はなかったのですが、検診の性格上、今後も人間ドックでは毎回要精検となり、個別に精密検査を受けなければならないようです。これまた苦痛であるマンモグラフィを2回受けなければならないことを考えると、精神衛生上良くないです。また、人間ドックを受けた医療機関と精密検査を受けた医療機関に所見の食い違いがあったことも、不信の原因となりました。
人間ドックとは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、
表面的にみて身体に異常や故障のない,いわゆる健康人を対象に,その健康度の判定,および潜在的な病気の早期発見を目的にして,短期間に行う総合的な検診。
とあります。
これを、たくさんの、いわゆる「健康人」に対して「早期発見」を促すため、効率よくロボットの定期点検のようなやり方がされているんですね。
私は健康のために、食事・運動・睡眠に気をつけています。自分なりに無理なく続けられる方法を見つけて実践しています。更年期対策には漢方薬局に通って専門家に診てもらうこともしています。
その努力のおかげか、今までだったらすぐ体調を崩していたような状況でも、なんとか健康を維持できています。健康かどうかの判断を人任せにするのではなく、自分の体の声を聞くのが大切だと考えているので、調子が悪いなと思ったらすぐ休んで回復に努めています。また、もし大病にかかったらどうするかということも考えています。
薬にもできるだけ頼りません。薬は病気を治すのではなく、治す手助けをするものだからです。
この考え方は教育にも当てはまると思います。
今後、このことを少しずつ検証していきたいと思います。
教育改革を実践した先生の本の紹介ー勉強することとクラスのあり方など
教育改革。課題が大きくて難しいもののようですが、できることから少しずつ始めている先生方がいらっしゃいます。メディアで取り上げられていることも多いですが、ご自身が書かれた本を読むと、全貌がわかります。
まとめて見る機会がなかなかないので、このブログで少しずつ紹介していきたいと思います。
まず初めに、工藤勇一先生。
千代田区立麹町中学校の校長先生です。
「学校の「当たり前」をやめた。~生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革」(時事通信社)
「はじめに」より、重要と思われるポイントを抜粋していきます。
『注目されている取り組みの中には、「服装頭髪指導を行わない」「宿題を出さない」「中間・期末テストの全廃」「固定担任制の廃止」などがあります。』
民間出身の校長先生ではありません。教員、教育委員会の仕事を通して考え続けてきたこと、
『「目的と手段を取り違えない」
「上位目標を忘れない」
「自律のための教育を大切にする」』
という基本的な考え方を軸に、「当たり前」とされてきたことを見直した結果だそうです。
『学校は何のためにあるのかーー。
学校は子どもたちが、「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると私は考えます。
そのためには、子どもたちには「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身に付けさせていく必要があります。
社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、この「教育の原点」に立ち返らないといけない』
今の日本の学校の問題は、
『「手段が目的化」してしまっているからだ』
『例えば、国が示す学習指導要領は、大綱的基準にすぎないのですが、多くの教員はこれを「絶対的基準」と考えがちです。』
『学校教育は多くの法令等で規定され、廃止することができない部分もあります。しかし、大半の部分は、法令よりも「慣例」によって動いているだけです。』
そして、
『あなたには「あなたのできること」がある』
『学校という存在自体も「手段」の一つにすぎず、「目的」ではありません。』
『教師は、人材育成のプロであるはずです。』
『学校が変われば、社会は必ず変わります。』
早く先が読みたくなる、希望に満ちた言葉です。
「はじめに」を読んで興味を持ったら、ぜひ本を手に取って読んでいただきたいですが、一部だけここでご紹介します。
【宿題は必要ない】
宿題の「目的」は、分からない→分かるようにすること。
繰り返すことで定着させるにしても、「自分の特性に合った方法」がよい。
宿題が通知表の「関心・意欲・態度」の評価に使われてしまっている。
【中間・期末テストも廃止】
定期考査の「目的」は、学力の定着を図ること。
実態は通知表をつけるために使われている。
年5回、中間テストは主要5教科、期末テストは副教科4教科を加えたパターンの学校が多いが、法律や教育委員会規則等で定められているものではない。
→定期テストの代わりに、単元テスト(各単元が終わった後のテスト)、と実力テスト(出題範囲が示されない)を実施
通知表は絶対評価なので、全員に「5」がつくこともあり得る。
評価は入試に使われるため、先生からいい評価をもらうために宿題をしたり、テストを受けたりしなければなりません。「勉強する」意味がわからなくなる子どもが出てくるのも当然です。
他にも、「クラス担任制の廃止」「体育大会のクラス対抗をやめた」という話など、とても興味深い点がありますので、詳細はぜひ本をお読みください。
春のクラス替えで一喜一憂する子どもがたくさんいます。クラス分けは先生方にとってもいろいろな点を考慮しなければならないため大変な作業だと思いますが、クラスにしばられる行事のあり方を見直せば、先生も子どももお互いに負担が減るのではないでしょうか。
たまたまクラスがいっしょになっただけの人たちと、たまたま当たった先生のやり方のもと、心を1つにして何かをやり遂げなければなりません。
1度だけならまだしも、1年の間に何回もとなると、居心地の悪い思いをする子どもがいても不思議ではありません。
大人だって、自分からすすんで手をあげたものではない限り、心を一つにしようなんて思わないでしょう。
学校の中の「当たり前」は、社会では必ずしも「当たり前」ではない。
手段が目的になってしまっていないか見直しが必要です。
学校体育
千代田区立麹町中学校長、工藤勇先生の本を紹介してきましたが、本の帯にはこう記してあります。
『何も考えずに「当たり前」ばかりをやっている学校教育が、自分の頭で考えずに、何でも人のせいにする大人をつくる。』
今日(2019年5月30日付)読売新聞の特別面「スポーツの力」のコーナーにこんなことが書いてありました。
『日本人のスポーツ観は「教育か娯楽」と言われ、欧米のような市民文化としてはあまり育って来なかったとされる。教育という観念が強いのは、西欧スポーツが明治期以降、学校という場を通じ国民に普及したせいだ。それがくせものだった。(中略)
日本が後発の近代国家として富国強兵を掲げた明治時代、西欧生まれの「体操」を中心教材とする学校体育が、1886年に必修になった。体を鍛え、強い兵士と国民を作るという国策だった。(中略)日本人がスポーツに教育や健康増進の意義を求め、「やらされるもの」と捉えがちなのは、こんなところにルーツがあるのかもしれない。』
学校の体育の授業で、軍隊のような整列の仕方が今でも行われているそうです。
指示通り動けるかどうかのテストもあるそうです。
目的が変わっている今、全面的な見直しが必要です。運動部が多い部活のあり方も合わせて考える必要がありますね。
NHKスペシャル・不登校44万人の衝撃
2019年5月30日、22:00〜のNHKスペシャル、見逃した方、是非チェックしてみてください。
不登校、文部科学省の調査よりかなりの大人数が計上されています。
44万人は、およそ8人に1人、全く学校に行けていない人だけでなく、隠れ不登校(つらいが我慢して通っているなど)まで含みます。
不登校の理由は、人それぞれです。一括りにできる問題ではありません。
しかし、学校のシステムが合っていない、破綻寸前だということは目に見えています。「不登校は、子どもからのボイコットだ」と表現する人もいます。
Twitterにはたくさんの学校関係者の悲鳴が載っています。
#学校ムリかも と#未来の学び で、不登校を経験している若者の声を読むこともできます。
なぜなのか?NHKスペシャルでは、熊本大学教育学部准教授 苫野一徳先生が理由を説明されています。
細かなルール
学力向上至上主義
教師の多忙化
今回取り上げられていた内容と、将来の展望が描かれている本はこれです。
「学校」をつくり直す (苫野一徳 著)2019年3月発行
帯に書かれた言葉をご紹介します。
『みんな一緒、みんな同じの、150年変わらないこの国のシステムは、本気で変えなくてはならない――』
150年…。長すぎる。何世代前なんでしょう?昔の成功例を引きずりすぎですね。
学校に子どもが合わせるのではなく、子どもに学校が合わせなければなりません。
NHKスペシャルで紹介されていた、オランダの「イエナプラン教育」は、オランダ在住の教育・社会研究家であるリヒテルズ直子さんが、少なくとも15年以上前(私が知った頃)に日本に向けて紹介しています。なのに、学校改革が全然進んでいないことに失望してしまいました。私が「子ではなく孫の代には…」と言っているのは、変化が遅すぎてあきらめモードだからです。
苫野一徳先生の本の内容の続きは、また今度。
学校教育だけではない教育の問題点
教育というと、学校を思い浮かべます。多くの人は、自分が受けた子どもの頃の学校をまず思い浮かべると思います。
学校以外でも、当たり前、慣習になっていることをそのまま続ける、続けているうちに、目的がブレてしまい、手段が目的化していることに気づかない例が多く見られます。
例えば、習い事の代表の1つ、ピアノ教室(音楽教室)の発表会のあり方。日頃の練習の成果を発表する、人前で演奏する機会を持つ、他の人の演奏を聴いて励みにする(個人レッスンの場合)…などが目的でしょうか。私もピアノを習っていましたが、発表会で弾く大曲は、練習し過ぎで嫌いになり、発表会が終わった後はしばらくその曲を弾きたくない(もう練習しなくてもいい)気分になりました。これはなぜでしょう?
日本に来る外国人が増え、日本語学校の問題がニュースに取り上げられるようになりました。元々は大学に留学するための日本語を勉強するというのが目的だったはずですが、現在は、就労目的の学生がほとんどになっています。しかし、以前から変わらない体制で授業を行っている学校がまだまだ多いです。これはなぜでしょう?
就活している学生はみな黒いスーツを着ています。私の頃は、自分が似合う色、業界・職種に合った服装をしましょうということで、黒のスーツは選択肢にありませんでした。暑い中、見た目も重苦しそうですし、黒スーツの集団はとても違和感があります。これはなぜでしょう?
個々の教室や学校、先生の問題だけではありません。業界全体とそれを取り巻く社会の問題でもあるのではないでしょうか。
満点を取らせないために、定期テストにわざと難しい問題を入れるという公立中学校の話を複数筋で聞きました。定期テストの目的は、どこまで(どれだけ)できるようになったか確認するためではなかったですか?テストの点数が良ければ、生徒だけでなく、先生も嬉しいはずではないですか?
こんなことが起きる理由の1つには、周辺にある塾との兼ね合いがあるそうです。塾が、成果を上げるために(良い評判が上がる→生徒数を増やすために)定期テスト対策をして、生徒の成績を上げようとします。度を越すと、実際に出された定期テスト問題を過去の生徒から集めておき、対策に使うこともあるそうです。学校の先生の行動は、それに対抗するためなんだそうです。
ピアノ教室や日本語学校、就職先は、合わなければ他に変えるという選択肢があります。しかし、公立小学校・中学校は、私立に行かない(受験しない)限り学校を選択することはできません。先生も選択できません。合わなくて一番辛いのは子どもです。だからこそ、システムを変える必要があるのです。
歴史は大人の教養の1つ
最近、無性に歴史を勉強し直したくなりました。
池上彰さんの「おとなの教養(NHK出版新書)」によると、
『歴史とは常に勝者 によって描かれてきた勝者の物語なのではないか。』
とあります。
つまり、「負け組」から見た内容は書かれていない。
歴史の授業は好きではありませんでした。先生が面白おかしく解説してくださったのですが、テストでは結局年号だったり、人名だったりを正確に覚えていないと点数が取れなかったからです。
今なら、細かいことは覚える必要はありません。だいたいの時期と前後関係がわかればOK!歴史上の出来事の背景や、関係した人達の思い、現代に活かせる点の探求などができると面白そうです。
YouTubeでも解説動画があるのですが、それはその人の一解釈として、複数の本を読んだり、可能であればその場所を訪ねてみたり、といろいろなことができそうです。
でも、これは時間があればこそですね。
忙しい日々の中、時間を見つけて先人の思いにひたる、そんなリフレッシュ方法もいいかもしれません。
大学入学共通テストの記述式問題
センター試験に代わって2021年1月から大学入学共通テストが行われます。
その中に、記述式問題が加わります。その採点が問題になっています。
マークシート式問題の採点は、コンピュータにおまかせなので簡単です。
コンピュータは人間と違って、同じことを何度も繰り返すことが得意ですし、○か×かの判定は得意中の得意、間違えることはありません。コンピュータの性能次第ですが、短時間ですべての採点を終えることができます。
ところが、記述式問題はどうでしょう?採点はコンピュータではできませんので、人間がします。期限がありますので人数が必要です。いくら採点基準があっても、採点基準にない解答が出た場合どうするかで得点にばらつきが出ます。人間が長時間作業すると、間違いが出てくる恐れもあります。
マークシート式の問題では測れない能力を記述式問題で測る、それ自体はすごくいいことなのですが、問題はその後です。
試験制度が、1点や2点のわずかな差で受験生にとって有利不利になるというところが問題なのではないでしょうか。
その小さな差で、希望する大学に入れる入れないが決まる、だから採点も細かく慎重にし、しかも結果をできるだけ早く出さなければいけない、自己採点を見て出願するのに、自己採点と実際の点数との差が大きいと意味がない…etc.
そろそろ日本も大学のあり方を変え、「入学するのは難しく、卒業するのは簡単」から、「入学するのは易しく、卒業するのは難しい」に移行していく時期なのではと思います。
「合格できるのが定員まで」ではなく、「この基準以上に達していれば合格(入学資格あり)」にすれば、多少の誤差は問題にはならないでしょう。
大学側の不安としては、定員よりかなりの大人数が入学してきたらどうしようという問題があるのでしょうが、一斉授業から脱却すれば、融通をきかせるために工夫できることは結構あるのではと思います。
大学の制度が変われば、高校も変わりますし、就活のあり方も変わってくると思います。そうなれば、小・中学校も変わらざるを得なくなるでしょう。