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『カラマーゾフの兄弟』をちょっと読んでみての感想

今、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでます。まだ上巻の300ページぐらいで全然話の中核にまでは進んでないですけれど。

そこでカラマーゾフ家の三男アリョーシャが修道院に入ることになって。その修道院は長老制というものを採用していました。
これは、修道院で精進する者はそこで一番偉い存在である長老に絶対服従するというものだそうです。作中では、長老の言うことに逆らえば即刻破門となり、なかには修道院を逃げ出した人がいて後年遺体がその修道院に戻ってきたそうです。長老が言うには、こいつは修道院に逆らったため亡骸をここに納めるわけにはいかないとのこと。結局その遺体はどこか別のところへ行ったそうです。

つまり長老は、修道院の人にとっては身も心も全て長老のものになるわけです。絶対的な立場になります。アリョーシャの修道院ではゾシマという人が長老であり、かなり病弱な様子。
カラマーゾフ一家がこの長老のもとへ訪問すると、道化を演じる父ヒョードルに「自分に嘘をつくな」とアドバイスしていた。他にも一般の巡礼者にもありがたいことばをかけるなどをしていた。

巡礼者の中で一番印象的だったのが、上流階級らしき夫人で、キリスト教を心から信じられないことを悩んでいた(その章の表題にもなっていた)。キリスト教に反対しているわけではないが、信仰を行う際に、どうも下心を抱いてしまうとのこと。つまり神に祈ったらなんらかの見返りを心の底で期待しておりそれを恥じているようだ。

宗教に対する信心を疑うのは彼女だけでない。父ヒョードルも同様のことを口走っていた。長老との面会後、修道院長との食事に招かれるがその席で「教会はなんのためにあるのです。社会に貢献しないようなら潰れちまえばいい」の旨を言っていました。

これは非常に重要な問いだと思いました。どうして宗教を信じるのか、まさしくこの本質をヒョードルは抱いている。一方で彼は放蕩たらしでろくに子育てもしなかった。そうした自分をなさけなく思っている節があり、そんな自分を認めてくれる存在を探している一面もあります。

カラマーゾフ家の長男ドーミトリィも同じでした。カテリーナ・イワーナワナという女性を金で買おうとしましたが、身売りを承知で彼のもとに来る女の姿を見て自分の愚かさを実感していました。性的関係を持たず金を貸したことが功を奏し、この二人は結婚の話が出るのですがドーミトリィは気が進まない様子。恐らくだが魂の潔白さという点で彼女に対して不釣りあいだと思っているのでしょう。それゆえ別の女(名前は忘れました)のところへずるずる足を運んでいるのだと感じました。
それで自分の過去の出来事とその愚かさをアレクセイに伝える場面がありました。お酒に酔っていたこともあり長広舌になっていました。途中シラーの「歓喜の歌」を引用するなどして、とにかく自分が愚かである事、そして高潔な理想的な世界を心の底では渇望していることがよく感じ取れました。

宗教を信じようとはしないが心の底では救いを求めている。そうした登場人物がすでに多く出てきていると感じています。

自分の愚かさについてですが、別に恥じる必要はないと思います。人間だもの。いわゆる「悪い」といわれる感情や欲求を抱くこと自体は決して悪いことではない。
上記の内容が今の私の考えですが、これが正しいかはわからない。私は先ほどあげた登場人物より年齢は若く彼らほど色々経験しているわけではないはずだ。
それに、さきほど「ドナルドトランプの創り方」の感想を投稿したが、もし私がロイ・コーンのような生き方をして多くの人を踏みにじることになれば?政府の人間となり戦争を引き起こし人類の多くを殺戮したとしたら?ふと我に返ったとき、大量殺戮を実行した自分を見てはたして私は恥じる必要がないと言い切れるだろうか?
迂闊にも私の考えは万人にとっての正しさには当てはまらないだろう。では恥じることのない生き方をしていくのが賢明だということだろうか?まだまだ考えを続ける必要がある。

長老制について書こうと思ったらだいぶ逸脱してしまった。
続きは次の記事にします。

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