やっぱり地獄に堕ちたのか…

  嘉吉元年(1441)八月七日条 (『建内記』4─7)


 七日、辛未、天晴、
  (中略)
 自今日於浄花院又被行如法念仏、御臺御願也、依御夢想之告有此事云々、
 普廣院殿海中船中有血、血中御坐、御頸許在血上、御臺夢中被尋申子細之処、
 非血爲火、依慳貪放逸之業所感也、此苦痛無間断、非念仏者、難免之由有仰、
 啼泣給御夢覺了、因茲以来十三日「四十九日」也、爲結願、自今日思食立云々、
 南無阿弥陀仏、予毎日阿弥陀経一巻・称名念仏若干反廻向、于今無懈者也、

 「書き下し文」
 七日、辛未、天晴る、
  (中略)
 今日より浄花院に於いて又如法念仏を行はる、御台の御願なり、御夢想の告に依り此の事有りと云々、普廣院殿海中の船中に血有り、血の中に御坐す、御頸ばかり血の上に坐入り、御台夢中に子細を尋ね申さるるの処、血に非ずして火たり、慳貪放逸の業に依る所感なり、此の苦痛間断無く、念仏に非ずんば免れ難きの由仰せ有り、啼泣し給ひ御夢覚め了んぬ、茲因り来る十三日「四十九日なり」を以て結願と爲し、今日より思し食し立つと云々、南無阿弥陀仏、予毎日阿弥陀経一巻・称名念仏若干反廻向す、今に懈り無き者なり、

 「解釈」
 七日、辛日、天晴れ。
  (中略)
 今日から浄花院でまた型どおりの念仏を唱えられた。御台所の御祈願である。御台所の夢のお告げにより、この法会を行ったそうだ。足利義教は、海に浮かぶ船の中で血とともにいた。血の中にお座りになっていた。義教の御首だけが血の上にあった。御台所は夢の中で理由をお尋ねになったところ、血ではなく火であった。けちで欲深く、情け容赦もない振る舞いによる結果である。この苦痛は絶え間なく、念仏でなければ逃れることはできないと仰った。義教は声をあげてお泣きになり、御台所の夢は覚めた。これによって、七日後の来る十三日(が四十九日に当たる)を結願とし、今日から念仏を始めることをご決心になったそうだ。阿弥陀仏に帰依したてまつる。私は毎日阿弥陀経一巻を読誦し、称名念仏を数回行い、義教を?供養している。今まで怠けたことはないのである。

 「注釈」
「浄花院」
 ─清浄華院。現在は上京区北之辺町。この時期は上京区元浄花院町にあったと考えられる。浄土宗四ヵ本山の一つ(『京都市の地名』)。

「御臺」─足利義教後室、正親町三条尹子。

「普廣院殿」─六代将軍足利義教。

【コメント】

 なんとわかりやすい夢のお告げでしょうか。恐怖政治を敷いた足利義教は、案の定?地獄に堕ちたようです。妻の正親町三条尹子は、地獄の業火に包まれて苦しんでいる夫の夢を見て、阿弥陀仏に救いを求める法会を開始する決意をしました。これで極楽浄土に生まれ変われればよいのですが。なお、記主の時房も毎日阿弥陀経を読み、念仏を唱えていたようです。文脈からすると、義教の供養のためだったのでしょう。

2016年8月23日擱筆

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