ハーレム内の憂鬱 ④(完) 〜中世公家密通法〜
永享二年(1430)五月十一日条
(『図書寮叢刊 看聞日記』3─201頁)
五月十一日、晴、仙洞女房一条局〈日野中納言盛光卿女、〉令懐妊云々、
(正親町三条) (後小松上皇)(足利義教) (実煕)
是三条中将実雅朝臣所犯也、自仙洞室町殿へ被訟仰之間、洞院中納言事有
(季保ヵ)
傍例、以准拠之例可有御免之由被申、御使四辻中納言也、時宜猶不許之間以外
〔処〕
腹立、有扶持之子細執申入之処、無御免者以前洞院事同罪一々可拠罪科也、
向後院参も可斟酌之由被申之間、無力御免、向後事堅被置厳法之由被仰云々、
其大法以宸筆被遊、諸家・公卿・殿上人・医陰輩不限老若悉可相触、面々可
(親光) (親光)(田向経良)
進請文之由、広橋中納言為奉行被仰出、仍自広橋源宰相ニ此旨申送、可被進
請文云々、折紙云、宸筆、
〔処〕
於禁裏・仙洞之間若有女犯之輩者、不依上中下臈之勝劣可被拠罪科事、
一、遠流事、
一、被召放所帯、或被返付由緒之仁、或可被宛行便宜之輩事、
雖為女公人有犯過之儀者、同可及所帯之沙汰者也、
右条々厳法、令申談室町殿所定置也、
(1430)
永享二年五月七日
請文之旨大略一同云々、於禁裏・仙洞之間、女中不依上中下臈至女公人有女犯之
(田向経良)(重有)(田向)
儀者、可被拠罪科之由謹奉了、其旨可存知之由也、前源宰相・庭田三位・長資
(庭田) (庭田重有)
朝臣・重賢請文如此、重賢者雖未出仕、為向後父卿請文ニ可存知之由書載云々、
禁・仙之番不祗候此御所輩まて被仰下、不得其意事也、凡前代未聞之厳法也、
禁裏・仙洞小番衆厳密被定云々、番帳一見記之、(後略)
「書き下し文」
五月十一日、晴る、仙洞の女房一条局〈日野中納言盛光卿の女、〉懐妊せしむと云々、是れ三条中将実雅朝臣の犯す所なり、仙洞より室町殿へ訴へ仰せらるるの間、洞院中納言の事傍例有り、准拠の例を以て御免あるべきの由申さる、御使四辻中納言なり、時宜猶ほ許さざるの間以ての外腹を立つ、扶持有るの子細執り申し入るるの処、御免無くんば以前の洞院の事も同罪にて一々罪科に処すべきなり、向後院参も斟酌すべきの由申さるるの間、力無く御免、向後の事堅く厳法を置かるるの由仰せらると云々、其の大法宸筆を以て遊ばされ、諸家・公卿・殿上人・医陰の輩老若を限らず悉く相触るべし、面々請文を進らすべきの由、広橋中納言奉行として仰せ出ださる、仍て広橋より源宰相に此の旨を申し送り、請文を進らせらるべしと云々、折紙に云ふ、宸筆、
禁裏・仙洞の間に於いて若し女犯の輩有らば、上中下臈の勝劣に依らず罪科に処せらるべき事、
一つ、遠流の事、
一つ、所帯を召し放たれ、或うは由緒の仁に返し付けられ、或うは便宜の輩に充て行はるべき事、女公人たりと雖も犯過の儀有らば、同じく所帯の沙汰に及ぶべき者なり、
右条々の厳法、室町殿に申し談ぜしめ定め置く所なり、
永享二年五月七日
請文の旨大略一同と云々、禁裏・仙洞の間に於いて、女中上中下臈に依らず女公人に至るまで女犯の儀有らば、罪科に処せらるべきの由謹んで奉り了んぬ、其の旨存知すべきの由なり、前源宰相・庭田三位・長資朝臣・重賢の請文此くのごとし、重賢は未だ出仕せずと雖も、向後のため父卿の請文に存知すべきの由書き載すと云々、禁・仙の番に祗候せざる此の御所の輩まで仰せ下さる、其の意を得ざる事なり、凡そ前代未聞の厳法なり、禁裏・仙洞の小番衆厳密に定めらると云々、番帳一見し之を記す、
(後略)
「解釈」
五月十一日、晴れ。仙洞の女房一条局〈日野中納言盛光卿の娘〉が懐妊したという。なんと正親町三条中将実雅朝臣が犯したのである。仙洞後小松上皇から室町殿足利義教へ訴えなさったので、室町殿は、「洞院中納言実熙の件という先例があります。準拠する慣例があるから、お許しになるべきです」と申し上げなさった。御使者は四辻中納言季保である。仙洞のお考えは、依然として許さないというものであったので、このうえなくお腹立ちであった。御使者の四辻季保は、助ける理由を取り次ぎ申し入れ、「お許しがないなら、以前の洞院実熙の件も同罪で、一々処罰しなければなりません。今後は院中に参上することも斟酌するべきです」と室町殿が申し上げなさったので、仕方なくお許しになった。「今後は厳重に法令を定め置かれるべきである」と後小松上皇は仰せになったそうだ。その大法は宸筆によってお書きになり、諸家・公卿・殿上人・医師・陰陽師ら、老いも若きもすべてに広く知らせるべきで、各々が請文を進上しなければならないと、広橋中納言親光が奉行としてご命令になった。というわけで、広橋親光から源宰相田向経良にこの内容を申し送り、請文を進上すべきであると命じられたそうだ。宸筆の折紙は次のようなものだ。
禁裏と仙洞において、もし女犯の罪を犯した者がいれば、上中下臈の身分差によらず、処罰されなければならないこと。
一つ、遠流に処すること。
一つ、所領・所職を取り上げ、あるいはその所帯に由緒をもつ者に返し付けられ、あるいは都合のよい人物に支給されるべきこと。
女の下級職員であっても、女犯の罪を犯したら、同じく所領・所職を召し上げるべきである。
右の一つひとつの厳法は、室町殿に相談させ申し上げて制定したのである。
永享二年五月七日
請文の内容はおよそみな同じものだったそうだ。禁裏・仙洞の間で、女中は上中下臈によらず女の下級職員にいたるまで、女犯の罪があれば、処罰されてもよいという内容の請文を謹んで差し出した。その内容を承知しておくべきだということである。前源宰相田向経良・三位庭田重有・田向長資朝臣・庭田重賢の請文はこのようなものである。庭田重賢はまだ出仕していなかったが、今後のため父庭田重有の請文に、重賢も承知しているということを書き載せたそうだ。禁裏や仙洞の番に祗候していない我が御所の被官まで請文を提出するようにご命令になった。納得できないことである。まったく前代未聞の厳しい法律である。禁裏・仙洞の小番衆に対しても、厳密に法律が定められたという。番帳を一見してこれを記した。
「注釈」
「三条実雅」
─1409〜1467(応永十六〜応仁元)。室町時代の公卿。父は権大納言三条公雅。母は家女房。応永二十年(1413)正月、叙爵。侍従・近衛・頭中将から永享四年(1432)七月、参議に任ず。同九年十月、権中納言で使別当に補す(左衛門督)。妹に将軍足利義教の側室尹子があったが、嘉吉元年(1441)六月二十四日、義教暗殺のときにその席に陪従していたため数カ所の傷を受けた。その年十二月、権大納言に進み、翌々年三月、太宰権帥を兼ねる。享徳二年(1453)十二月、官を辞し、長禄元年(1457)九月、内大臣に任ず。翌年七月これを辞し、長禄三年正月、従一位に昇叙。寛正二年(1461)七月二十九日、出家、法名常禧。応仁元年(1467)九月三日没す。五十九歳。青蓮華院入道前内大臣と号す。和歌にも秀でていた(『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社)。
「洞院実煕」
─1409─? 室町時代の前期の公卿。初名実博。法名元鏡。東山左府と号す。応永十六年(1409)生まれる。父は内大臣洞院満季、母は法印兼真の女。応永三十一年従三位、非参議。正長元年(1428)参議を経ずして権中納言となったが、翌永享元年(1429)勅勘によって辞官。同二年還住し同四年権大納言、嘉吉二年(1442)に右大将、文安三年(1446)内大臣に昇ったが宝徳二年(1450)辞職。しかし享徳三年(1454)に右大臣、康正元年(1455)には左大臣となった。長禄元年(1457)四月十一日辞官、同六月五日出家。没年は明らかでないがまもなく没したものとみられる。朝儀典礼通暁し、父祖公賢の著した『拾芥抄』を補訂したともいわれている。現存の日記『実煕日記』(『洞院左府記』『東山左府記』ともいう)は永享四年・享徳二年の記事を部分的に収めている(『日本古代中世人名辞典』)。
【コメント】
さて、今回の記事では、正親町三条実雅と一条局(日野盛光の娘)との密通が発覚しています。ところが、室町殿足利義教の口入(執奏)によって、正親町三条実雅は無罪となっています。一条局の処遇はわかりませんが、足利義教の意向によって、後小松上皇の処罰権に制限がかけられたことはわかります。前回の記事でも紹介しましたが、天皇の介入によって起請文を書くことを免れた日野西資子の場合と同様に、この時期の密通問題は、各家政権力内だけで処理できる案件ではなかったということがわかります。つまり、問題は仙洞御所で起きているのに、後小松上皇の意志だけで処分することができなかったようです。なぜ、自分の妾たちと自分の部下が密通に及んだのに、上皇は自分の意志を通すことができなかったのでしょうか。
中世では、天皇の官吏として禁裏に祗候しながら、室町殿や摂関家の家司、院司を兼任する公家がおり、こうした複数の身分や役割をもつ人物が国政を支えていたそうです(井原今朝男「天皇の官僚制と室町殿・摂家の家司兼任体制」・「結語」『室町廷臣社会論』塙書房、2014)。禁裏・仙洞・摂関家・室町殿といったさまざまな家政機関に廷臣が出入りするような政治形態だったからこそ、公家や武家の入り乱れた密通事件が起きるようになったのかもしれません。後小松上皇は厳格な法令の制定を命じたのですが、その法令が足利義教との相談のうえで制定されていることも、「公武共同執行体制」という政治形態を象徴しているかのようです。
ところで、密通・密懐の研究については、勝俣鎮夫「中世武家密懐法の展開」(『戦国法成立史論』東京大学出版会、1979)を嚆矢に、以後多くの研究が積み重ねられてきました。その中で、今回の史料に触れている研究として注目されるのが、辻垣晃一「密懐・密通・色好み」(『比較家族史研究』22、2007)です。この研究によると、武家の場合、間男への復讐観念が強いが、公家では復讐観念が弱いそうです。その背景にあるのは婚姻形態の違いで、武家は嫁取婚が多く、公家は婿取婚と嫁取婚が並立した曖昧な状態だったそうです。古代では、皇后や妃、それらの予定者、及び後宮の女官と密通したものは処刑される運命にあったそうですが、8〜9世紀になると、殺害されない代わりに流罪という緩和された措置へと変化します。これは、天皇を暴力による血の穢れから回避させるためだったと考えられています。結局、今回の法も死罪にまでは至らないので、公家社会では密通に寛容であったことがわかります。
前掲辻垣論文によると、この法令は厳密には遂行されなかったらしく、法令以後の密通事件では、当事者は出仕停止、最終的には赦免されたそうです。法令は制定したのですが、以前と同じように、その時の上皇の意向によって、解決が図られていたのです。今回の「中世公家密通法」に永続的な効果はありませんでしたが、法令の制定経緯を見ると、その背景に「公武共同執行体制」という室町期の政治形態が浮かび上がってくるような気がします。
2018年11月11日擱筆