イカれた女 Part2 〜器物損壊と放火〜
文安四年(1447)二月十一日条(『経覚私要鈔』1─151頁)
十一日、癸卯、天曇、(中略)
〔柏槇、下同ジ〕
一木阿語云、興福寺西金堂ノ前ナル白眞木、枝トモ烏食折、假令人ノヲリカヌル
ホトナルヲモ折云々、以外事欤、又春日社ノ金剛童子ノ辺ナル白眞ヲモ烏食折
〔ノヵ〕
云々、尤奇異事欤、次女物狂、南円堂ノ前ニ三十三所巡礼ノ札ヲ木在之、此札
ヲ取集テ、南円堂ノ壇ノ上ニテ焼之、結句此木ニ火ヲ付之間、寺中火事アリ
トテ、自方々馳集見之処ニ、件物狂也、仍召籠云々、春日大明神ノ仕シメミナ
如此沙汰之由申云々、実否如何、凡大晦日ノ夜、菩提院中ニ神火済々、如此ノ
奇異太多云々、(後略)
「書き下し文」
十一日、癸卯、天曇る、(中略)
一つ、木阿語りて云く、興福寺西金堂の前なる白眞の木、枝どもを烏食ひ折る、仮令人の折りかぬるほどなるをも折ると云々、以ての外の事か、又春日社の金剛童子の辺りなる白眞をも烏食ひ折ると云々、尤も奇異の事か、次いで女の物狂ひ、南円堂の前に三十三所巡礼の札の木之在り、此の札を取り集へて、南円堂の壇の上にて之を焼く、結句此の木に火を付くるの間、寺中火事有りとて、方々より馳せ集ひ之を見る処に、件の物狂ひなり、仍て召し籠むと云々、春日大明神の仕ひし女此くのごとく沙汰するの由申すと云々、実否如何、凡そ大晦日の夜、菩提院中に神火済々、此くのごとき奇異太だ多しと云々、
「解釈」
一つ、木阿弥が語っていうには、興福寺西金堂の前にあるビャクシンの木の枝々を烏が食い折った。たとえてみるなら、人間では折りきれないほど折ったという。大変なことであるよ。また、春日社の末社多賀社のあたりにあるビャクシンの枝も、烏が食い折ったそうだ。まったく奇妙なことであるよ。次に、女の狂人のこと。南円堂の前に三十三所巡礼の札を打ちつける木がある。この札を取り集めて、南円堂の祭壇の上で焼いた。挙げ句の果てに、この木にも火をつけたので、寺内で火事が起きたといって、方々から人々が走り集まり、火事場を見たところ、前述の狂った女だった。そこで、その女を捕らえて閉じ込めたという。春日大明神に仕えた女がこのように振る舞ったと申したそうだ。実否はどうだろう。そもそも大晦日の夜、菩提院の中で人為をこえた不思議な火がたびたび発生した。このように奇妙な出来事がとても多いという。
「注釈」
「木阿弥」─未詳。
「西金堂」
─西金堂跡(さいこんどう) 天平六年光明皇后が前年に亡くなった母の橘夫人のために建立、釈迦丈六の像を本尊とした。堂宇は享保年間に焼失した。八部衆像・十大弟子像(国宝、奈良時代)などは西金堂に伝わったもの。土壇が残存、前方には鎌倉後期の石灯籠台石があって、その上に寛永十七年(1640)の石灯籠が立てられている(「興福寺」『奈良県の地名』平凡社)。
「金剛童子」
─現在の春日大社の中院にある多賀社(佐藤正彦「中世春日社境内末社の造替について」『日本建築学会論文報告集』221巻、1974・7、53・55頁、https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijsaxx/221/0/221_KJ00003901065/_article/-char/ja/)。
「南円堂」
─弘仁四年(813)藤原冬嗣の創建。現堂は寛政元年(1789)に再建をみた。堂は八角円堂で、単層・本瓦葺。西国三十三所第九番の札所である。
本尊木造不空羂索観音坐像は治承の焼失後に再興、木造四天王像や木造法相六祖像(いずれも国宝、鎌倉時代)などとともに、文治四年から五年にかけて仏師康慶とその一門によって造られたものである。堂前の青銅灯籠(国宝)は、宝珠・石基壇は江戸時代の修補、ほかはすべて鎌倉時代の造補、火袋扉のみ弘仁七年在銘。六面のうち四面が残っていて、陽鋳銘がある。「銅灯台銘并序」弘仁七載歳次景申、伊」予権守正四位下藤原」朝臣公等、追遵」先考之遺敬志、造銅灯」台一所、(下略)」この銘の筆者は橘逸勢と伝えるが、確証はない。神護寺(現京都市右京区)の鐘銘、道澄寺の鐘銘(五條市栄山寺所蔵)と並んで「三銘」と称される。南円堂梵鐘は、永享八年(1436)の造立(「興福寺」『奈良県の地名』平凡社)。
「三十三所巡礼ノ札」
─当時、巡礼者が札所の木や建物に祈願札を打ちつける風習(札打ち)があった(五来重「西国巡礼の成立」『遊行と巡礼』角川選書、1989年、93頁)。
「めみな」
─おみな(女)の誤記か。
「菩提院」
─大湯屋の南、三条通を隔てた所にある。玄昉の創建と伝承。長和二年(1013)以後は朝欣によって十一面観音(秘仏、稚児観音)を安置(菅家本諸寺縁起集、興福寺濫觴記)。堂は天正八年(1580)に創建された(菩提院大御堂棟札)のを、旧規模で内部鉄筋コンクリート、外部木造の二重構造として昭和四五年修理完成した。この時の発掘調査によって、五間に三間の創建時の建物と、四期に分かれるその後の変遷とが明らかになっている。とくに第三期、十二世紀末の大御堂に付属する鎮壇具が良好な保存状況で出土したことが注目される。本尊木造阿弥陀如来坐像(国重文、鎌倉時代)。ほかに観音・勢至などを安置する。
菩提院を俗に十三鐘または大御堂ともいう。昔七つと六つの間にこの寺の鐘が撞かれるので、七つと六つを合して十三鐘といわれた。いつしかそれが十三歳の三作という子供が春日の神鹿を殺して石子詰の刑に処せられたという伝説となった。鐘はいま南円堂に移されている(『奈良県の地名』平凡社)。
【コメント】
今回は、「イカれた女」の第2弾です。以前に紹介した女は、政所伊勢貞国邸に不法侵入し、意味不明なお告げをもたらしましたが、今回の女の行動はかなり悪質でした。人々が祈りを込めて打ちつけた祈願札を剥ぎ取り、なんと祭壇の上で焼き払ってしまったのです。挙げ句の果てに、祈願札を打ちつける木にまで放火。おかげで寺内は大騒ぎです。現代風に言えば愉快犯、あるいは一時期流行ったバカッターというところでしょうか。これがホントの大炎上!
ただ、実際のところ、何が原因で「物狂ひ」となったのか、何を目的にこのような迷惑行為に及んだのか、さっぱりわかりません。まぁ、何もわからないからこそ、「物狂ひ」と定義づけられたのでしょうが…。
ただ今回の「物狂ひ」事件も、中世びとには「怪異」だと認識されていたようなのです。烏が枝を食い折った事件や神火事件とともに報告されていることが、証拠の一つになるでしょう。中世びとは「物狂ひ」行為の背景に、犯人自身の意図や資質、精神疾患などではなく、超自然的な存在の影響を見ていたようなのです。このような世界観をもつ中世びとが現代の愉快犯やバカッターを見たら、メディアやSNSという物の怪に取り憑かれて、常軌を逸した行動をとっている、とみなされてしまうのでしょう。
2023年3月19日擱筆