怪鳥来襲 〜バケモノの処理法〜


妖怪 猫鶏蛇(ねことりへび)の想像図

  応永二十三年(1416)四月二十五日条 (『看聞日記』1─29頁)


 廿五日、晴、聞、北野社ニ今夜有怪鳥、鳴声大竹ヲヒシクカ如云々、社頭モ
 鳴動ス、二またの杉ニ居テ鳴、参詣通夜人消肝云々、宮仕一人以弓射落了、其形
 頭ハ猫、身ハ鶏也、尾ハ如蛇、眼大ニ光アリ、希代怪鳥也、室町殿ヘ注進申、
 射之宮仕御感有、練貫一重・太刀一振被下、鳥ハ河ニ可流之由被仰云々、

 「書き下し文」
 廿五日、晴れ、聞く、北野社に今夜怪鳥有り、鳴き声大竹を拉ぐがごとしと云々、社頭も鳴動す、二股の杉に居て鳴く、参詣・通夜の人肝を消すと云々、宮仕一人弓を以て射落し了んぬ、其の形頭は猫、身は鶏なり、尾は蛇のごとし、眼大きに光有り、希代の怪鳥なり、室町殿へ注進申す、之を射る宮仕に御感有り、練貫一重・太刀一振下さる、鳥は河に流すべきの由仰せらると云々、

 「解釈」
 二十五日、晴れ。北野天満宮に今夜、怪しい鳥がいたという。鳴き声は、大竹を押しつぶしたような音だったそうだ。神社も大きな音を立てて揺れた。二またの杉に止まって鳴くので、参詣する人や通夜をする人たちがとても驚いたらしい。身分の低い社僧一人が弓でこの鳥を射落とした。鳥の頭は猫、身体は鶏で、尾は蛇のようだったそうだ。目は大きく光っていたという。世にも希な怪鳥である。室町殿足利義持へ報告したところ、怪鳥を射落とした社僧にお褒めの言葉があった。練貫一重と太刀一振を社僧に下さった。鳥の死骸は川に流せ、とお命じになったという。

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。


 「注釈」
「北野社」
 ─北野神社。北野聖廟・天満宮とも。現社名は北野天満宮。山城国葛野郡。京都市上京区馬喰町。皇城鎮守二十二社の第20位。下八社の内。天皇外戚、摂関家の守護神。平安京内の守護神。正暦2年(991)十六社から吉田社・広田社とともに十九社となる。奉幣使は菅原氏の五位。天慶5年(942)、右京七条に住む多治比文子に神託があり、邸内に小祠を構えて祀る。天暦元年(947)には、近江国比良宮の神良種の童男太郎丸に託して、北野の地へ移座したい旨の託宣が下り、北野の朝日寺の僧最鎮と文子・良種が相図り、同年の6月に社殿を創建した。その後、度々社殿の増築があり、天徳3年(959)の5度目の大造営には右大臣藤原師輔の尽力があり、摂関家の庇護をうけることになる。北野祭は永延元年(987)より公祭となる。神社行幸七社の内(寛弘元年〈1004〉初例)。祭神は菅原道真。相殿に中将殿・吉祥女を祀る。本地仏は十一面観音(天神記)。神宮寺は、北野聖廟・北野寺と呼ばれ、比叡山西塔の東尾坊(のちの曼殊院)を創った菅原氏出自の僧是算が寛弘元年(1004)別当職に補せられ、以降代々東尾坊が相承して北野社を管理した(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

「宮仕」─掃除などの雑役に従事した下級の社僧(『日本国語大辞典』)。

「練貫」─縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。

『看聞日記』
 ─『看聞御記』とも。(伏見宮)貞成親王の日記。本記・別記あわせて54巻。本記は1416─48(応永23─文安5)にわたる。筆者の日常生活、朝廷の動向、足利義教期の幕府政局、世相、芸能など多岐に及ぶ事柄が記されている。自筆本は宮内庁書陵部蔵(『新版 角川日本史辞典』)。


【コメント】

 頭は猫で、胴体が鶏、尻尾が蛇のような生き物って、な〜んだ!? そんな動物は知りません…。いわゆる「鵺」の亜種で、キメラだとか、キマイラと呼ばれるような怪物だったと考えられます。本当は、ヤマドリのような尻尾の長い鳥が、ギャーギャー鳴き騒いでいたのでしょうが、漆黒の闇夜に、見慣れない鳥が奇声を発していたために、妖怪が現れたと勘違いしたのではないでしょうか。
 さて、射殺された怪鳥ですが、そのまま川に流されてしまいます。私なら焼却処分にしてしまいますが、中世人は流してしまうのです。中世人は、いったいどんな葬送慣習や他界観をもっていたのでしょうか。人間と怪物(人ならざるもの)の扱い方では、違いがあるのでしょうか。時間を見つけて勉強してみようと思います。

2018年4月17日擱筆


*2018.5.2追記
 その後、少し調べてみました。当初、私は射殺した怪鳥を水葬したものと考えていましたが、今では、災禍や疫病、穢れのようなものとして、怪鳥の遺骸を処理した(祓った)のではないかと思っています。
 勝田至氏の「中世民衆の葬制と死穢」(『日本中世の墓と葬送』吉川弘文館、2006)によると、葬送を表す史料用語は「棄つ」や「葬(す)る」という言葉であり、またそれらを「棄置」や「葬送」のように、複合動詞や熟語として使用していることがわかります。さらに、「河原に捨て置く」という表現はあっても、今回の史料のように「河に流す」という表記は見られないようです。すべての史料を調べつくしたわけではありませんが、勝田氏の研究を参考にすると、この史料にあらわれた「流す」は、「葬送」という意味ではなかった、と考えられそうです。
 では、「河に流す」とはどういう意味なのでしょうか。山本幸司氏の「穢の伝染と空間」(『穢と大祓』解放出版社、2009)によると、まず河原のような開放空間では、穢は伝染しないそうです。また、池や井戸のような限定された範囲に溜まっている水には浄化力はないが、流水には浄化力があるそうです。一方で、火にも浄化力はありますが、不浄なものを焼いた火は、逆に不浄な存在に変わるそうです。
 関連する記事が見当たらないので、これ以上推測することはできませんが、おそらく怪鳥の出現はそれ自体が災禍、あるいは災禍の兆候と認識されていたのではないでしょうか。そして、怪鳥の遺骸を火葬・土葬しても災禍は祓えないからこそ、川に流したのではないでしょうか。


*2022.4.4追記
 酒呑童子、玉藻前、鵺なども、退治された後に祓い流されたそうです(小松和彦「酒呑童子の首」『日本人と鬼』角川文庫、2018年、114・115頁)。


*2024.12.1追記
 この史料は、香川雅信氏の『妖怪を名づける』(吉川弘文館、2024年9月)で取り上げられています。以下、該当箇所を引用しておきます。

 だが、後花園天皇の実父である伏見宮貞成親王が書き残した『看聞日記』の応永二十三年(一四一六)四月二十五日の条には、北野天満宮に大竹を押しつぶすような声で鳴く「怪鳥」が現れた、といおう記事が見える。この「怪鳥」は参詣の者を恐れさせたので、天満宮の社僧が弓矢で射落としたところ、頭は猫、体は鶏、尾は蛇という怪物だった。このことは室町幕府第四代将軍であった足利義持にも報告され、「怪鳥」を射落とした社僧は褒美として練絹と太刀一振りを与えられた。「怪鳥」の死骸は川に流されたという。まるで「鵼」の物語の焼き直しのようだが、このような話が、風聞とはいえ当時の記録に書き留められているのである(41頁)。


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