こんなところで産まなくても…
嘉吉二年(1442)十月十九日条 (『康富記』1─306頁)
七社奉幣事、
十九日丙午 晴、
(中略)
是日管領被立両使〈飯尾肥前入道、松田対馬入道、〉於石清水、是自社家有注進
云、猪之鼻辛櫃石邊にて妊婦令産子令触穢、件石破裂云々、爲検知、且又有社家
例哉之由爲被尋也云々、後日承分、如此事社家有先例云々、
(後略)
「書き下し文」
十九日丙午 晴る、
(中略)
是の日管領両使〈飯尾肥前入道、松田対馬入道、〉を石清水に立てらる、是れ社家より注進有りと云ふ、猪の鼻辛櫃石邊にて妊婦に子を産ましめ触穢せしむ、件の石破裂すと云々、検知の為、且つ又社家の例有るかの由尋ねられんが為なりと云々、後日承る分、此くのごとき事社家に先例有りと云々、
「解釈」
この日、管領が両使「飯尾肥前入道と松田対馬入道」を石清水八幡宮にお遣わしになった。これは社家から注進があったからだという。猪鼻坂の辛櫃石辺りで妊婦が子を産み触穢になってしまった。その石は砕けたそうだ。両使の派遣はその注進を検知するため、また社家にこのような先例があるのかをお尋ねになるためであるという。後日聞いたことによると、このようなことは社家に先例があるそうだ。
「注釈」
「管領」
─畠山持国。管領在任期間は、嘉吉二年(一四四二)六月二十九日〜文安二年(一四四五)二月二十三日(『新版 角川史日本史辞典』)。
「両使」
─鎌倉期以来、土地相論に関する幕命を現地において履行するために派遣された御家人。二人一組で派遣されたのでこのように称した。鎌倉後期以降、同じ機能を常時当該国の守護が担うケースが増大した(『新版 角川日本史辞典』)。
今回の両使は、管領の命令によって検知のために派遣されたと考えられます。
「飯尾肥前入道」─室町幕府奉行人飯尾為種(永祥)か。
「松田対馬入道」─室町幕府奉行人松田貞清(常守)か。
「猪之鼻」
─猪鼻坂のことか。二の鳥居と神幸橋の間にある上り坂。現在は存在しないようです(谷村勉「安居頭諸事覚を読む」『会報』五五、八幡の歴史を探究する会http://yrekitan.exblog.jp/iv/detail/?s=23217675&i=201411%2F02%2F25%2Ff0300125_10595954.jpg)。
「辛櫃石」─唐櫃のような形の石か。
【コメント】
地元の人か、遠方の人かわかりませんが、安産祈願にでも来たのでしょうか。とある妊婦が石清水八幡宮で突如産気づき、そのまま出産してしまいました。よくぞ、無事(かどうかわかりませんが)に産んだものです。ですが、おかげで石清水は産穢で穢れてしまい、また辛櫃石が砕けるという怪異まで起きてしまいます。こんなことがあるとは驚きです。しかも、先例があるとはさらに驚きです。
そういえば、庶民の出産はどのように行われていたのでしょうか。医療の知識や設備は、現代とは比べものにならないほど拙いものであったはずです。路上で産んでしまうことも珍しくなかったのかもしれません。現代人ならこのような出産は恐ろしくて仕方ないように思いますが、当時の人はどんな感覚だったのでしょうか。意志や理性では、人間の生理現象をコントロール仕切れない。その典型例のような記事です。
2017年4月30日擱筆