ジブリに学ぶ多様性
昨今《多様性》という言葉が流行っているが(意図的に流行らせている?)日本にはとうの昔から多様性を重視してきたものが沢山ある。
そのうちの一つが宮崎駿監督の作るジブリ映画だ。
ストーリーや世界観も斬新なのだが、キャラクターが最も斬新だ。
今回はそのキャラクターたちの個性を掘り下げていこうと思う。
千と千尋の神隠し
特に千と千尋の神隠しに出てくるキャラクターは多様性に富んでいる。
まあ言うなれば異世界モノでかつ人間ではなく妖怪なんだか人間なんだかよく分からないキャラクターが沢山出てくる。
カオナシ
なんと表したらいいか分からないが、こう…マントを被っているようなデザインで、顔のある部分にはお面がひっ付いている。
これだけで独特なデザインなのだが、このカオナシという(化け物?妖精?妖怪?)は、「あ…」と「え…」しか音声を発しない。
これもなかなか変わった設定で印象に残る。
そしてこのカオナシ、他にも特性がある。
《人の欲を利用する》のだ。
手から物体を生成して、人の欲望を刺激し、誘惑する。それにつけ込んで人を思い通りに動かしたり、食べたりする。
さらに能力として持っているのが
《食べる度に身体が大きくなる》
《口にした者の声を出す》《口にした者の身体的特徴を自身に反映させる》
といったHUNTER × HUNTERの念能力者もビックリな能力を持っているのだ。
これを多様性と呼ばずなんと呼ぼうか。
湯婆婆
見た目はごく普通のおばあちゃんだ。
千と千尋の神隠しといったら湯婆婆を思い浮かべるという人も多いだろう。それくらいのインパクトなのだ。
おばあちゃんの存在感が大きい映画は大体名作だ。
理由は多様性のある映画だから。
そしてこの湯婆婆、多様性を感じさせるのはおばあちゃん性だけではない。ジブリ作品なのでひと癖もふた癖もある。
顔だけやたらめったらデカイのだ。最初は人間かと思ったが、人間ではない。
グラップラー刃牙の登場人物だと言われて、ギリギリ納得出来るレベルだ。
主人公の千尋やその両親は普通オブ普通なので、刃牙理論は通用しない。
そして魔法が使える。
刃牙の登場人物でも説明がつかなくなった…。
釜爺
これまたパッと見は普通のおじいさんだ。しかしよく見ると手足が多い。蜘蛛のような姿をしている。
なんならその手足は伸縮可能だ。蜘蛛以上だ。蜘蛛以上の何か。
見た目は不気味だが、性格は優しい。
「エンガチョ!千!エンガチョ!!」のシーンは作中で最も有名なシーンと言っても過言ではない。
ススワタリ
トトロに出てくるまっくろくろすけだ。
しかしトトロのまっくろくろすけと違うのは、手足が生えている点だ。
工場のような場所で石炭を運んでいる。
ウニに手足が生えたような姿はとても可愛い。
そして作中には、ネズミとカラスとの掛け合いがあったような気がするが、それがまた可愛かった。
坊
上の動画のネズミだ。
元々デカイ金太郎のような感じだった。
スキンヘッド金太郎ベイビーだ。
見た目は赤ん坊だが流暢に喋れる。可愛いが結構わがままで粗暴傾向がある。力が強い。
それでも子供らしく、血を見るとパニックになる。
ハウルの動く城
荒地の魔女
普段は美しい姿をしているのだが、魔法で美貌を保っている。実際はそれなりに歳を召している。
魔法が解けると体型も顔も見にくく変貌する。
主人公に老化の魔法をかけた張本人であり、前半は恐ろしい印象だったが、魔法が使えなくなってからというもの、介護施設にいてもおかしくないくらいの老人に退化(元の姿)してしまった。
声優を担当しているのは美輪明宏さんだった気がするが、完全にハマり役だった。
「ハウルの心臓、欲しいいいい」
ソフィー
物語の序盤は若い娘であるが、荒地の魔女に魔法をかけられ、身体が老化してしまう。ここが多様性。主人公が老化するというのが斬新だ。映画ポスターのひとつに廊下状態のソフィーが横を向いているデザインのものがあった。
映画、しかもアニメで老婆が主人公というのはなかなかないと思う(《ハウル》の動く城なので、ハウルが主人公なのか?)。
この魔法は自力で解くことが出来る。それは恋をした時という超絶ロマンチックな時だ。
最終的に完全に解けるのだが、どうやって解いたのかは覚えていない。
神木隆之介がやってるガキんちょ
お名前を忘れてしまい申した。
この子供もただ者ではない。
老人に擬態するのだ。
おそらく魔法の類かと思われる。バレそうなものだと思ってしまうし、あんまり使い道なさそう。だけど可愛い。
「またれよ」
カルシファー
本人曰く悪魔とのこと。
しかし見た目は火。火に顔がついている。かわいい
火をキャラクターにするっていうのも斬新だ。
そして、悪魔なので心臓を食べると力が出るらしい。
これも魅力的な個性だ。
ハウル
ハウルだけはちょっとベタに感じた。
ナルシストなのは見た目で何となく分かるし、マザコンっぽいし、化け物に変身するのも少年漫画味があって斬新さを感じない。
ゲド戦記が低評価された理由はこういうジブリらしくないベタ設定を盛り込んだからだと思う。
ハウルの動く城も、ベタな性質を持ったヒロイン、ベタな性質を持った移動手段、ベタな敵だと叩かれていただろう。ありふれた設定というやつか。
ソフィーが始めから終わりまでただの少女だったら…。神木隆之介のガキもずっとガキだったら…、カブもずっと人間だったら…と考えると確かい面白いかもしれないが、記憶には残らないかもしれない。他も似たような設定で展開だからだ。
しかしハウルに関してはハウルの精神状態が城とリンクしていたり、落ち込んだ時に緑色の粘液を纏うというのは変わった性質だと思った。やっぱりジブリのキャラクターはひと味違うというか、王道に影響されていそうでされていない、キャラクター性の元ネタ、バックボーンが見えてこないのだ。
他の作品はバックボーンや元ネタが何となく見えてくる事がある。
ブラッククローバーの元ネタはNARUTOだろうし、北斗の拳はマッドマックスだろうし、甲鉄城のカバネリは進撃の巨人だろうし…。
「こんなふうな設定の作品、前にも見た気がするななあ」
「多分この先こうなるだろうな。このキャラはこんなような能力だろうな」
というような感想になりがちだ。
城
忘れていた。人物ではないが、城自体が個性の塊だ。
まず動くというのが斬新だ。
そしてファストトラベル機能が付いているというのも魅力的だ。
とまあ沢山挙げたが、他にも個性的なキャラクターは山ほどいる。しかしいすぎて挙げていくとキリがない。カエル男や平安風の女、なんなら完全なカエルもいたな…。可愛いけど。
後半では透明な肌だけ透けている人間や、一本足の街灯なんていうのも登場する。
ジブリに出てくるキャラクターはとても多様で個性的だ。
だからジブリは愛される。思い出しながら記事を書いているが、また観たくなってきた。
何年ぶりだろうか、冗談抜きに10年は観ていないと思う。
今観たらまた違う発見があるのかもしれない。
もしかしたら感動しないかもしれない。
思い出補正というものはある。最近昔遊んでいたプレステ2が無性に恋しくなったので、メルカリで購入した。
…肩透かしだった。
画質が荒く感じるのは現代のゲームに慣れてしまったからだと言えるが、ボリュームや難易度、作り込み度や迫力が感じられなかったのだ。
思い出補正なのか、感性の鈍化なのかは分からないが、ガッカリしたのを覚えている。
もしかしたら千と千尋からも勝手に肩透かしを食らうかもしれない。
わざわざ振り返って現実を見るより、思い出の中で美化し続けようか。
しかしこの作品は子供でも大人でも楽しめる。これは確かだ。
見た際の感動、焼き付けた記憶…。
オススメは出来る。
鬼滅の刃が千と千尋の興行収入を超えたそうだが、老若男女に愛されるのは千と千尋だろう。
キャラクターの多様性が違う。
バトルシーンや死亡シーンは人を選ぶ。少なくとも鬼滅の映画では鬼を含めて数人死んでいる。
売上やランキングが全てではないことを僕は知っている。
日本のYouTuberでチャンネル登録者数でトップなのは、HIKAKINでもはじめしゃちょーでもないのはご存知だろうか。
名前は忘れたが(そこそこYouTubeに触れる僕が名前を知らない時点で知名度はない)海外で評価されている男性だった。本職は芸人だったような気がする。
チャンネル登録者数が多い割に内容が面白くない。
まったく似つかわしくない内容だった。コメントはほとんど外国語だったが、日本人のコメントは大体「海外の人の感性は分からん」「何が面白いん?」といったネガティブのものだった。ちなみに僕も同意見だ。小学生でも笑わない、幼稚園児でギリギリ笑うかなぐらいの芸をしていた。
YouTuberは低俗で寒い笑いが多いが、その中でも頭二つくらい抜いて面白くなかった。
話が逸れてしまったが、ジブリは本当に多様性を感じさせる。
そして無理矢理感や政治感、社会問題を反映させた感じがしない。
「ああ黒人がやたらめったらでるのは最近社会問題になってるからだなあ」
とか
「同性の恋愛描写が描かれているのは最近これらの団体が運動して、話題になってるからだなあ」
などということを考えて、こう…思想の刷り込みをされている、洗脳や宣伝をされている気持ちの悪い感じがしない。
最近のゲームは本当にプロパガンダと化している。
ストーリー以外に思惑があると一度感じてしまうと、純粋に娯楽が楽しめない。台無しだ。
娯楽は政治の道具じゃない。
ジブリはその点、完全にその世界観に没頭できる。
政治的なメッセージというような、邪な下心がないからだ。
もしジブリに現代の問題をくっつけるとしたらどうなるか。それこそまず
《千尋が黒人》
まあこれはまだ百歩譲って大丈夫。
日本が舞台だとしても違和感はない。なぜなら日本にも黒人はいるからだ。
アメリカが舞台で、カオナシや湯婆婆のいる世界に迷い込んだとしても、カオナシや湯婆婆がいる世界は異世界なので関係ない。日本っぽい異世界というだけだ。
《千尋がレズ》
これはちょっとダメかもしれない。いや、まだ百歩譲れるか、譲っていいのか。
リアルな設定ということで納得できなくはない。
リンや湯婆婆と接して赤面する千尋も、レズなのだとしたら自然だろう。
たしかにその理論でいくと、《千尋が女性》ということも不自然になる。でも千と千尋の中では自然な設定に見えた。
多分それは他の個性が強すぎたからだと思う。
《黒人》《レズ》《女性》という現実世界の変わり者とレッテルを貼られた属性は、千と千尋に登場する《顔のデカい老婆》《手足が沢山ついた老人》《竜になる少年》《喋るカエル》《人を食べるお面人型》《緑の首3兄弟》という強烈すぎる個性の前にはかき消されてしまう。千尋が普通すぎて逆に目立っているくらいだ。千尋だけ黒人で英語を喋って初めて千尋もその世界観に溶け込めていると言えよう。
湯婆婆「そこに名前書きな」
CHIHIRO「OK」
《CHIHIRO SUZUKI》
湯婆婆「はん。CHIHIROというのかい。贅沢な名だね」
「今日からお前の名前はCHIROだ!!」
CHIHIRO「What you say?」
…みたいな。日本風の異世界で使われている言語は日本語であったため、アメリカ出身のCHIHIROは全く言葉が分からず四苦八苦する……みたいな。
鉄拳の世界ならば違う言語でもやり取り出来ているだが、コミュニケーションのハンデがあるジブリ作品というのもなかなか面白そうだ。
しかし様々な言語があるのは現実の世界の事実だ。そう考えると現実の世界もなかなか多様だと感じる。
しかしほんと、改めて考えると千と千尋の神隠しは起承転結や会話のかみ合いがなければ、完全に熱が出ている時の夢だ。
同じく多様性があるなと感じさせる作品に、《ジャンプ漫画》と《任天堂ゲーム》があるが、それについて書くのは別の記事で。