出来損ないの思い当たる節
数年前に知的障害だと認定された身だが、納得がいったのは、過去にそれなりの経験をしてきたからだ。
それも学生時代からだ。
今回はそんな無能からくる黒歴史をネットに放り投げようと思う。
家庭科卵事件
家庭科の授業はいつも理解出来なかった。周りの人間がせこせこ動くのを見ていただけだった。
そして何やら卵がどうのこうのといった話になった。
割る割らないという話だと分かった僕は「とりあえず割ってみよう」とアドバイスした。
班のメンバーが割ったが、その直後に怒られた。
ゆで卵になっているかどうかを話していたらしい。
僕は作業を全て任せっきりだったので、卵を煮ていた時代など把握しているわけがない。
割った瞬間生卵でした。
班長仕切って事件
面倒事を押し付けられる性質らしく、班長に任命された。
授業内容としてはレクリエーション活動というのだろうか。班行動の街探索というような感じだった。
あまり覚えてはいないのだが、「班長!仕切って!」とメンバー全員から責められていた事は覚えている。
まあ僕のことなので、とるべき行動が分からなかったのだろう。個人の課題もこなせない人間が、集団をまとめるなど無理だ。
裁縫事件
これまた家庭科だが、エプロンを作ろうという授業だった。のだが…エプロンを破った。何をどうしたのかは分からない。しかしそもそも作り方を分かっていなかったんだと思う。筆記の授業についていけていないのに、実技の授業になどついていけるわけがない。
最後は担任の先生に作ってもらった。
はんだごて工作事故
はんだごてを使って、基盤作り作業をする。
工業の基本なのかは分からないが、鉄線に鉄の円を通し、円の内側が鉄線に触れると音が鳴るというオモチャを作った。
頑張って作ったのだが、僕の作った作品は、鉄の円が線に触れても音が鳴らなかった。
今に始まったことではない。
周りにフォローされていたから気づかなかっただけなのだ。
なにせ馬鹿だから。
今なら小学校の家庭科や班行動くらいはクリア出来るかもしれない。
それでも《かもしれない》レベルだ。もう本当に今までの経験で自信をバキバキに折られてきたので、何をするのも怖いのだ。
免許なども取得したが、運転に自信が全く持てないため、ペラペラのペーパードライバーだ。今までの失敗経験から、自分が事故を起こしているビジョンしか見えない。
自動車学校に通っている時点で散々失敗経験を積んでいる状態なので、夢で事故を起こしている夢も見ていたくらい精神的に不安だった。
失敗経験が重なると、何をするにも失敗する予想が頭に張り付いてしまうのだ。
座学で見せられる事故ビデオを、未来の自分と重ねてしまう。
システムとして的確な表現として、携帯の予測変換がある。
ユーザーがある単語を頻繁に使うと、機械がその単語を学習して、対応する頭文字を入力した時点で、ユーザーがよく使う単語が手前に表示される。そして最近の機械は性能が良いので、単語に続く接続語や、自然に繋がる言葉を予想して手前に表示する。
人間はこれが人生の経験で起こるのだ。
失敗したら次もまた失敗すると予想する。
怒られたら、次も怒られると予想する。
それが続くと、同じような状況になった時点で「怒られる!」「失敗する!」と考えてして萎縮したり、回避してしまう。
人の顔色を伺って、少しでも表情が曇ると、負の予測変換をしてしまう。
「また怒られるな」
「またなんか俺が変なことやったんだろうな…」
予測変換の予想が現実になることが続くと、予測ではなく確信になるのだ。
こうなると学習性無気力状態になり、「何をしても無駄だ」という思考になってしまう。
僕は仕事などの頭脳を使った作業全般ができないと確信している。正社員は何をしても無駄だという思考になり、それがコンクリートのように固まってしまっている。
これをほぐすには仕事での成功体験が失敗の数より必要なのだが、それこそ《アルジャーノンに花束を》のような展開にならないと仕事で成功体験は得られない。というか成功体験が得られないのは事実かつ分かりきっているからやる気にならない。やる意味も勝算もない。見込みがない。これで会社に突っ込むのは、竹槍でゴジラに挑むくらい無謀だということが分かりきっている。
仕事でなくとも確認や判断系は怖い。責任や危険があるならなおさらだ。運転が怖いのは仕事で確認不足によるミスが連続したうえに、どれだけ気を付けても改善出来なかったからだ。
ただただ真っ当になりたかった。