限界効用逓減の法則
《なぜ今仏教なのか》
限界効用逓減の法則を思い出した。
リピートが多い程、得られる快感は減るという人間の心理。
美味い食べ物を初めて食べたとして、次も同じくらい感動するかと言ったら違う。
初めて食べた時の衝撃には勝てない。これは映画とかもそう。初見で感動しても、2回目からは感動したとしても、展開を知っているため初回ほどの感動は無い。
SNSから得られる承認欲求もそうだろう。
最初は30いいねくらいで満足できていたのに、今では50いいねでも満足できない……みたいな。
ちなみに僕はSNS自体に満足できなくなった。
本能的な快楽もそうだ。
初めて射精した時は意識が飛ぶほど気持ちよかったが、何回も射精すると、快感こそあれど意識は飛ばなくなる。
成長するほど時間が経つのが早く感じるのも多分そうだろう。
人間は感謝という感情を忘れる。家電があるのも食料があるのも当たり前だと思ってしまう。しかし感謝をしていると、文明の発展は無い。
平和が当たり前だと思う時、必ず戦争もするだろう。
ずっと同じ刺激で同じ満足度のままいられる個体がいるならば、それはこの上なく幸せなことだ。しかしそれは生物的には不自然な個体だと言える。そんな個体が増えれば、文明は発展しないからだ。
これは快楽経験だけではなく、嫌な経験にも言えるので、一概に悪いとは言えないらしい。
別れや挫折という負の経験にも慣れるということだ。
僕にも経験がある。
負の経験への慣れ。
猫や犬を大量に飼っていたのだが、その中の1匹が最初に死んだ時はとてもショックだった事を記憶している。
だが6匹目くらいになると「あ、また死んだのか」くらいになっていた。
芸能人の訃報もそうだ。
知っている芸能人が死んだ時はビックリしたしショックだった。三浦春馬くんなどがそう。あまりにもそんなことが多すぎて、りゅうちぇるあたりになると「え?へー」ぐらいしか感じなくなった。
元々節足動物の類が恐怖症レベルで嫌だった。部屋で見つけた際には、どんな小さな蜘蛛でも、家族が潰すまで寝られなかった。しかし蜘蛛が部屋に出まくった結果、慣れた。
それは暗闇とか、海とか、閉所とか、幽霊とか、色々な恐怖対象に言えるのだろう。結局繰り返し体験することで慣れる、という学習能力。
戦場でも同じだろう。
仲間が最初に死んだ時はストレスだろうが、10人20人とかになってくると、何も感じなくなる。それは自分が殺す側でも同じだ。
期待と不安
「次はもっと快感を得られるだろう!」
「次も怖さは変わらないだろう…」
それはない。どちらもない。
思い描いた満足度。それが現実になっただろうか。
「これさえあれば何もいらない!」
という予想は、その欲望が現実になった時、消え失せる。
サムライマックのダブル肉厚ビーフバーガーを初めて食べた時、この世でいちばん美味しい食べ物だと思った。
2回目も同じように感じると思った。しかし─────
「あれ?こんなんだっけ」
予想より美味しく感じなかったのだ。
そしてその感覚は回数を重ねるほど多くなっていった。
なんというか、粗さを感じ取れるようになったと言うか、ダブル肉厚ビーフの前は、ベーコンレタスバーガーで同じことが起こった。
1コ目は「美味しい!」なのだが、その時期マックに通いまくっていたので、毎週ベーコンレタスバーガーを食べまくっていた。舌が慣れていったのだろう。「パサパサしてて美味しくない」という感覚になったのだ。
何度も食べることによって、脳みそが学習したのだ。
刺激が減るどころか、粗が目立って味わえなくなった。
同じ刺激であることは間違いないのだが。これが限界効用逓減の法則だ。
それがダブル肉厚ビーフで再び起こったというだけだ。
最近はベーコンレタスバーガーもダブル肉厚ビーフも食べていない。ビッグマックを食べている。
しかしビッグマックも1コ目は美味しく感じたが、2コ目でもう慣れた。
慣れるまでの間隔が短くなりつつある。お利口で贅沢な脳みそになってしまった。