他人のnoteを読むと疲れる理由

多分みんな、他人のnoteを読むのは結構労力がいるはずだ。

僕だけだったらごめんなさい。

少なくとも僕は疲れるのだ。頻繁に記事を開いてはいる。
しかし読みづらい。
これはいままで、自分の読解力が無いせいだと思っていた。

原因がわかった。

世界観だ

世界観のすり合わせが必要なのだ。
価値観は違ってもいい。
感情では理解出来ずとも、理屈では理解できるからだ。

しかし世界観が違うと話は別だ。
世界観というのは、その人がどういう世界で生きているかということなのだが、一言で言うとラジオの周波数だ。例えばゲームについての周波数を発しているラジオならば、自分のラジオがゲームの周波数に合わせる必要がある。

noteは題名から記事の内容を想像することはしにくい。なので本文をしばらく読み進めないと、何の周波数を発しているのかが分からないのだ。
前置きに季節の話などをされると「ああ季節の話なのかな」と、周波数を季節に合わせる。そのあとすぐゲームの話になるなら、こちらも「ああ、前置きだったのね」と、すぐ周波数を修正できる。しかし季節の話から親の話、その日食べたお菓子の話などと、内容があっちへ行ったりこっちへ行ったりすると、もう周波数をどこへ合わせていいか分からなくなる。

言葉のニュアンスだって違ったりする。《姑息》という言葉は、《ずる賢い》というニュアンスではなく《その場しのぎ》というニュアンスらしい。
こうような些細なニュアンスの違いでも、読み手にとっては違和感を抱かせるものになる。しかし記事はそんなもの知らんと突っ走っていく。
解釈の確認も出来ないまま、記事は終わる。
これも世界観の違いだろう。

言葉の言い回しも世界観をズラす。
誰が何をいつどうしたかの表現方法は人によって違うので、それが自分の周波数と違うと、単語は読めるのに意味が分からなくなる。
周波数が違うハウリングして受信できない。

そういう世界観のズレが生じることが、noteを読んでいるとあまりに多い。
価値観も多分違うんだろうが、まず世界観が違いすぎて価値観の違いまで理解を進められない。

そしてこれが記事の数だけある。いちいち周波数のつまみをあーでもないこーでもないと動かす必要がある。読み手に労力がかかるので、しんどいに決まっている。

身内ネタがつまらないというのも、周波数がズレている代表例だ。
身内の周波数と、外の世界の周波数がズレていることによって笑いの認識に温度差が生じるのだ。

だから僕の記事も、人様が見たら分かりづらいと思う。
当たり前のように使っている言葉や価値観も、それは自分にとっての当たり前であって、他者とは違う。
自分が冗談のつもりで書いていても、他者からすると冗談にならなかっり、冗談として伝わっていなかったりすることもあると思う。
比喩表現も比喩表現と解釈されず、周波数がズレたまま間違った理解をされてしまう可能性だってある。

ゲーム用語に《人権》というものがあるが、本当の意味での《人権》ではない。
ゲーム用語のニュアンスとしては《使える使えない》のニュアンスなのだが、これを一般界に持っていくと誤解の元になる。
実際、プロゲーマーでこの《人権》をゲーム用語として使用し、誤解されて炎上した例がある。
身内ネタが外に出ると認識がズレるため、ろくなことがない。

純文学や現代アートより少年漫画が好かれるのは、読者にとって分かりやすいからだ。
現代アートや純文学といったいわゆる《芸術》は「貴方がたが解釈してくださいよ」と、セルフサービスを要求してくる。理解できないのはこちらの感性が悪いとしてくる。
ライトノベルよりマンガが売れているのも《分かりやすさ》が理由。文字より絵の方が分かりやすい。

だから僕は思うのだが、優れた発信者というのは、受け手側の周波数を調整させる労力が少ない発信者だと思う。
すんなり読める文章というのは、世界観の共有が容易い。タイトルで内容が分からなくても、単刀直入に本題に入るからだ。
「題名では内容想像できなかったけど、第一節に熊の話が出てきたから、熊の話なんだろうな」と。
そしてそのまま熊の話で終わる。周波数が家電だの風水だのあっちこっち行かない。

発信者が思いやりを持たなくてはいけないということだ。


感性や相性の問題というのもあるだろうが、見せるものなのだから、自己満足で終わらず、多少なりとも自分なりに忖度していきたいと思う。
「つまらない」というコメントをされたら、それは読者の読解力の問題ではなく、自分の文章力の問題なのだ。
バカでも5・7・5の俳句は読めるから。

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