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Norah Jonesを聴きながら・・・

久しぶりの平日休み。こんな特別なタイミングはなかなかない。
ということで、朝から掃除をはじめる。

起きてから何をして、一日がはじまるのか。

それはやっぱり掃除だろう。
まずは綺麗な空気を部屋に流し込んで、埃を取り去ることに集中する。

一日ですぐに新しい埃は積もってしまう。
灰色のひとひらは人知れず、空間のあちこちに生気を放ちはじめ
生命力をそこに宿す。
それを英気として養うことで、生き生きとしてしまう存在がいる。

アレルギーを発症させてしまうその存在は、目視できないだけに
浄化を怠るとあとが怖かったりする。

うさぎが家族としてお家にいるので、綺麗な部屋にすることは
主としての大事なおつとめでもあるのだ。

床がピカピカになると、とても心地よい空間に変わる。
拭く前と、拭いた後で目に見えた変化はないのだけれど
艶の具合は明らかに違う。

ピカピカとした清々しい輝きは、心も磨いてくれる。

掃除をすると、心も清められるのは何故だろう。
この心地よさはいつでも変わらない。
特に、天気が良い日の拭き掃除は最高だ。

一日中掃除をしないと気が済まない気もするのだけれど
せっかくのお休みなので、自分の楽しみも満喫できるよう
休み休み掃除をするという。

大概、掃除をすると決めた日でも
脱線しないことはないタイプである。
反面、私の母親はすごい集中力があるので
飲まず食わずで掃除をしてしまう。
途中で脱線したらやる気がなくなって掃除をしたくなくなるという・・・
大体私は、脱線することを止められながら掃除をしてきた過去がある。w

親子で性質の違いがあるのも面白い。
ただ、服やアクセサリーの好みはほぼ一緒。
私が買うもの全て、母親の好みらしいのだ。
だからプレゼントをするときなんかは
自分が凄く気に入ったものを渡せば大成功という
すんなり買う物を決められる長所がある。
男性の好みだけは全然違う。
ここも一緒だったのならある意味、問題が発生したかもしれない。
変なジェラシーのような空気感に悩まされることがないので
精神衛生上クリーンだろう。w

と、タイトルから脱線してしまったのだが(←脱線せずにはいられないのか!?)

Norah Jones の歌声の素晴らしさ。
時を遡ること高校3年生の頃だったか。

この声に衝撃を受けた。

アルバムの帯に
「スモーキーボイス」と書いてあったのが特に印象的だった。

これまでに声の特徴に「スモーキー」という部類分けがある
考えがなかったからだ。

確かに今は様々な音楽を自由に聴ける時代になったが
「スモーキー」な声質の人は多々いるように思う。

当時ではもうNorah Jonesしかいないくらいに感じていた。
その特別な声質の歌声にどこまでも浸るように酔いしれていた。

歌声を聞くと、凝りがほぐされる様な
心が満たされる感覚があった。

鬱々としたものを心に抱え、自己カウンセリングを行う日々だったけれど
彼女の歌声は特別だった。

アルバムのジャケットもすごくきれいだった。

黒と青のイメージ。
Norah Jonesのビジュアルも良かった。

それから少し時間が経って
社会人になってから
鬱々とした時代も抜け出し解放的になった頃
キャンドルに火を灯しながら彼女の歌を聴いた。

渋みを含んだ味わい深い歌声が
空間に広がって
揺れるキャンドルと照らし出される影の中
ゆらゆらと漂うように
音を聴いていた。

透明のキャンドルが燃えながら
溶けて滲んでゆく。

至福の時間だった。

当時耳にする音楽は特別だった。

CDをコンポに入れて流すという
一連の動作が何処か神聖な儀式の様にも
思えた。

その音を聴き取る前の段階から
心を鎮めて、波長を合わせる。

音と空間に魂が溶け合う瞬間のような
喜びだったように思う。

思春期に抱えていた鬱々としたもの
社会人になり少し救われて
そこで再び聴いた彼女の声は
より一層深い癒しをくれて心を満たしてくれた。

その頃の自分が書いたポエムを
最近読み返していて
蘇ってきた当時の記憶。

故郷で過ごした時間は
楽しい時も辛いときも貴重だった。
小さな幸せを大切に心に飾り続けた。
心が壊れないように必死で守っていた。
多分、私は常に心の底で
泣き叫んでいたようにも思う。

だからこそ癒しだったり
自分を守る言葉だったり
タブラ・ラサな白紙の世界に
言葉を書いて
書かれた言葉が文字となった私となり
私を私であると
知らしめてくれたり
この世に存在しているという感性を
与えてくれる必要不可欠なキャンバスとなっていた。

「汝自身を知れ」
という言葉が魔法のように突き刺さっていた
思春期。

私は私を失わない為に
私は私を必死で生きようとしていた。

タイムスリップして当時に波長を
合わせてみると随分と
切羽詰まった心の音がするのは
気のせいではない。

故に、私は私自身を知ろうとし続け
私は私であるということを必死に考え続けなければならなかった。

この感性。懐かしい。

当時の自分の感覚に戻るのは怖い部分もあったりする。
だけれども、そこを生きたからこそ
たどり着いた境地がある。

この文章に目を通してる皆様も
様々な歴史があり体験があり感性があるでしょう。

行き止まりで道が塞がった時こそが
深い部分の深層心理として
その人の人生、人格たらしめるものに
なり得るのだろう。

「汝自身を知れ」

あなたはあなた自身であるという体感を
何で得ることが出来ますか…

あなたはあなた自身であるという感性を
何で知ることが出来ますか…

つぶやきながら
眠りにつくといたします。

おやすみ前の今日のつぶやきでした。

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