太鼓を叩く喜びは 〜蜜蜂と遠雷を読んで〜
マサルは喜びを感じる。
そう、これは確かに太鼓を叩く喜びに近い。音の振動が跳ね返る感じ、心地好いリズムを刻む快感。それは、人間の身体に染み付いた根源的な喜びだ。
ピアノは打楽器。
マサルが第三次予選で一曲目にバルトークのソナタを弾く場面でそう語られる。
私はバルトークのソナタを弾いたことはないけれど、同じ喜びを感じた経験がある。
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私の地元は千葉県は鴨川市。合併前は天津小湊町と言った。
私の町には祭りがある。毎年7月に開催される須賀神社の祭礼。
私の父も祖父も、そのまた親父も参加していた。ずっとずっと前から町で受け継がれてきた祀事だ。
祭りは命。
普段は人っこひとり歩いていない過疎のまちも、祭りの三日間だけは道に溢れんばかりの人。
私も御多分にもれず祭りが大好きだ。大好きすぎて法被姿の父の背中を追いかけて、祖母に手をひかれ、2歳のときから祭りにいっていたらしい(リアルガチ)
笹万燈を飽きることなくひいていた私も、小学生になってからは小太鼓を叩くようになった。
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中学3年の時から高校卒業まで、須賀神社とはまた別の神社で巫女をしていた。こちらの神社の祭礼は秋なのだけれど、その祭礼で“浦安の舞”という舞をまう巫女をやっていたのだ。
午前中は神殿の中で厳かに行われる神事、午後は各町内から太鼓の音とともに万燈が集まって、賑やかに酒盛りが始まる。
「かみさまは賑やかなのが好きだから」
そう教えてくれたのは神社の大奥様だった。
午前中は祀事をしっかり行い、午後は町の者がみんな集まって賑やかにする。それが祭礼なんだと。
太鼓は古代から、どこの国でも、どこの民族でも持っていた楽器だ。
お祭りで太鼓を叩くのは、かみさまが喜ぶからなんじゃないかな。
賑やかな太鼓の音が町中に響き渡る。それが、かみさまは嬉しいんじゃないかな。
三日間の祭りの最後、神輿の御社入れのときには、神社下に町内の6台の万燈が一堂に会し太鼓を打ち鳴らす。かみさまとのお別れを惜しむように氏子は神輿を担ぐ。力の限り神輿をさす。
私はこのときひたすら太鼓を叩いている。無心でただひたすら太鼓を叩いている。
腹に響く太鼓の音
手に伝わるバチが太鼓を打ち鳴らす瞬間の衝撃
耳も腹も腕も足も、そして頭も脳みそも、
太鼓の振動と体が溶け合ってひとつになる
私はお囃子そのものになる
私ひとりだけじゃない、そこにいるみんなが太鼓の振動を通してひとつになる
太鼓を叩き続けていると、私が太鼓の音そのものになっていく。
その場にいるみんなが、まるでひとつのおとになっていくような感覚。
たぶん、それは、みんなが“かみさま”とひとつになる瞬間なんじゃないかな。
きっとこれが太鼓を叩く喜びなんだ。
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とまあここまで個人の感想を書き連ねて参りましたが、今年も天津の祭りは神事のみで、神輿も万燈も出せませんでした。
来年こそは力の限り祭りができるようにと祈っています。
太鼓を叩くのは、人間の身体に染み付いた根源的な喜びですから。