「認知症の第一人者が認知症になった」からの学び・気づき①
認知症の第一人者が認知症になった
認知症専門医として、「痴呆」という差別的な用語を「認知症」に改め、長谷川式簡易診断スケールの開発によって、それまで日本では診断基準がなかった認知症の早期診断を可能にした長谷川和夫先生。その長谷川先生自身が嗜銀顆粒性認知症と診断された。
自身が認知症の当事者となった長谷川先生は、医師として、当事者として認知症について伝え続けている。
長谷川先生の今を1年半渡り取材した番組がNHKで放送された。
50分間では伝えきれないことがたくさんあっただろう。それでも学びや気づきがたくさんあった。その学び、気づきを記録する。
認知症専門医としての原点 良い医師の条件
長谷川先生の原点は、担当していた50代でアルツハイマー型認知症と診断された男性の死後に、見つかったメモにある。
帰ってきてくれ僕の心よ 全ての思いの源よ
再び帰ってきてくれ
あの美しい心の高鳴りは、永遠に与えられないのだろうか
認知症について科学的な研究をしてきた長谷川先生は、このメモによって初めて患者のこころの内を知り、「何が何でも(認知症の研究を)続けるぞ」と心に決めた。
長谷川先生は、病気を診る医師ではなく、人をみる医師だとわかるエピソードだ。
良い医師とそうでない医師の差はその点にあると私は感じる。
男性のメモから、認知症当事者の苦悩を知った長谷川先生は、医療の無力感を嘆くのではなく、医療によって同じ苦しみを抱える人を減らしたいという思いを強く抱いたのだろう。だから、この苦しみを少しでも減らすために、「何が何でも続ける」と意志を固めたのだろう。
医師は単に病気を治す職業ではなく、病気によって引き起こされる人の苦しみを癒す職業である。だから病気だけではなく、人をみることが良い医師の条件である。
認知症と診断された人が感じること
長谷川先生が、自らの認知症を知ったときにはこう感じた。
診断されるまでは、こんなに大変だとは思わなかった。
もうダメだ。もうアカン
これから何もできなくなっていく
どんどん独りになっていく
医師として、「生やさしい言葉だけで人様に申し上げることはやめなくてはいけない」と思った。
多くの人の診断をし、診察をし、対話をしてきたであろう長谷川先生でさえ、診断されたときの絶望感は想像以上だったと語る。まさに「自分がなってみないと分からない」のだ。
他人の優しい言葉が、自分の感情の外側を上滑りしていく感覚を、当事者としてたくさん味わったのだろう。それだけに”思っていた以上に大変”という言葉は重い。
私たちに何ができるか
では、周りにいる人たちには何ができるのだろう。
私が思い出したのは、小沢竹俊先生の
「苦しんでいる人は、自分の苦しみをわかってくれる人がいると嬉しい」という言葉だ。 (『折れない心を育てる-いのちの授業–』小澤竹俊より)
認知症と診断されるのが、どれだけ辛く絶望的なのかは、なってみないと分からない。けれど、どれだけ辛く、苦しいのか、すべては分からなくても理解しようとする姿勢は伝えられる。
たった「それだけ」かもしれない。
認知症になったときの辛さ、苦しみ、絶望感を避けて通れないとしたとき、せめて「独りじゃないから大丈夫」と少しだけでも感じられたら、その人にとってかすかな救いになるのではないか。
人の辛さ、苦しみの理解者になろうと努め、理解していること(しようとしていること)伝えよう
「認知症の第一人者が認知症になった」からの学び・気づき② に続く