こんなの短歌じゃない(💢)、とあのお方はいう いや私は好きだけど(❤️)
この三つ、たまたま見つけた短歌です。それほど意味はありません。
*タイトル画像の短歌:上と右/西村曜、下/青松輝
俳句はまだ、少しは知っていましたけれど(といっても外国語の俳句なんですが。あ、あと小林一茶を少し)、短歌にはほぼ馴染みがありませんでした。現代短歌を含めてです。
それが、最近、短歌の面白さを発見したのです。正確にいうと、短歌の「読み」の面白さです。短歌というのは、読みおいて一つのの解釈しかないものと思い込んでいました。なのでその正解がわからない自分には、縁がないと思っていたわけです。
そうではないと知ったのは、文學界2024年9月号の『特集 短歌と批評』 歌会「短歌を詠み、短歌を読む — 十三名による大歌会」を読んだから。
こういうの何ていうんでしたっけ、目から鱗? それです。
文學界のこの号を買ったのは全然違う理由で、むしろ短歌特集は飛ばして読むくらいのつもりでした。ところが何となく読みはじめたらすごく面白い!
え、なになに?!!! という感じで、かなり大きな特集でしたがすべてのページを熟読しました。
この特集のメインは「13名による大歌会」で、(おそらくいま人気の)若手歌人が集まって、それぞれが1首ずつ(数え方合ってます?)短歌を(多分)無記名で(これが歌会のスタンダード?)出して、批評し合うというもの。これがいいというものを一人3首ずつ選んで、その理由や自分の解釈についてあれこれ言い合うスタイルでした。
そこに出てきた短歌というのが、たとえばこんな短歌です。
数えたら7、5、5、7、7でした。七五調ではあるけど、順番がちがう。いいんだ。これ、「結婚を」を頭にもってくれば、5、7、5になるけど、あえてそうしてないんですね! 「もうしてるのに」が頭にくるところがきっといいんだ。(歌会の中では誰も音律については指摘してないので、きっと普通なのでしょう)
歌会でみんなが何を言っているかというと:
「怖い」「ホラー」という言葉は他の人からもいくつか出てました。わたしはもっとぼんやり読んでいたので、へぇっ、怖いんだ、ホラーなんだと感想に驚きました。
この短歌については、それほど見方が分かれてないですが、次の短歌では人によってかなり「読み」が違うんだ、と面白く感じました。
青松さんのいう、「恥ずかしいぐらい五音すぎるぐらいの五音」っていうのが、ほぉそうなんだ、と。たしかに「⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎で」というのは、いかにもという定型的な印象はあります。恥ずかしいぐらい、、、そうなんだ。この青松さんという歌人は、面白そうな人だと興味を惹かれました。最初の句のところでは「嘘感が好き」とか。
次の句も雨がどんな雨かの想像は、読みが分かれている模様。
青松さんの感想と読みをいくつか取り上げていますが、この人の面白さは、次のような発言によく現れています。短歌の中の「身体性」について(作中主体を通じて感じる身体性、短歌的な身体性の豊かさ、といった発言に対して)、こう言っています。
それな、そうなんだ、と思わず膝をうちました。
身体性の肯定 → 定型の肯定 → 制度の肯定
ピリッときます。
この人はきっと制度としての定型化に抵抗しているんだと思いました。
わたしが短歌に馴染みがなかった理由も、このあたりにあるのかもと感じています。
制度をまんま受けてばかりいては先がない。定型化にはそういう落とし穴がきっとあるのでしょう。ただ俳句や短歌が日本で生まれ、誰でも気軽に参加できる公平感のある、あるいは民主的な文芸になっているのはすごくよくわかるし、そこには定型化という柱となるルールがあってこそ、それがいわば俳句や短歌であることの証明みたいになっている、そんな風にも思います。よくも悪くもという感じですが。
定型があって、そこに当てはめれば、はまっていれば、もう俳句、もう短歌、という世界はとても日本的な発明だと思う。
手土産の和菓子はたぶん中身より包みと箱と風呂敷がキモ
この大歌会の中で、短歌と制度について次のように言っている人がいました。
共通の価値観、言い換えると共通認識。短歌は俳句以上に共通認識を大事にしている文芸ではないかなぁ、と。それによって一つの解釈に集約されていって、読む人々が唯一の正解に導かれる。秀歌性というのは、たぶん、ベタな表現をさけつつも、誰もが一つの解釈に行き着くようにうまく書かれた短歌の質のことでは? などと思いました。間違っているかも、ですが。
それに対して、青松輝という歌人は、違う方向のことをしているように見えます。「共感」や「わかる」という方向では短歌をつくっていない。自分の中にあるもの(感情とか知覚とか知識とか)を、他者(読み手)のそれにあまり重ねていかない人。
短歌って、自分の感情のあり方を読む人に重ねていく、もっと言うと強要しているみたいなイメージがわたしにはありました。
青松輝さんは、YouTuberでもあるとわかったので、いくつか公開されている動画を見てみました。ハンドル名は「ベテランち」とか「雷獣」とかなんですが。
最初に見たのが「第2回 ポエム王」(短歌の穴埋めクイズ)という動画。青松が出題者で、灘高時代の同級生二人が回答者。ほぼお笑いの3人組みたいな感じでやってて、でもクイズはクイズ、内容は短歌。
設問は四つありました。3人のトーク含めて、かなり面白いです。
1. 焼肉とグラタンが好きという少女よ わたしはあなたの( ? )が好き
2.( ? )の( ? )の口を開けたらもう死んでもいいというくらい完璧に
3. 本日も( ? )のご利用まことにありがとうございました
4. ( A )持たせて夫送り出す ( A )は涙が拭ける
作者:1. 俵万智 2. 中澤系 3. 伊舎堂仁 4. 雪舟えま
興味ある方は、動画をご覧いただければ。
で、一つだけ、ここで回答を言っちゃいます。それ言わないと、ここで何が言いたいかの説明ができないから。
4. ( A )持たせて夫送り出す ( A )は涙が拭ける
*( A )には同じ言葉がはいる。
この穴埋めクイズっていうのは、短歌の中で一つの言葉がもってる意味とか重みとか穴とか光とか、、、たった一つ、ほんの1ワードなんだけど、元々つかえる言葉の少ない詩の中の一語なんで、抜けただけで何のことやらになるし、埋めただけでピリッ、キラッと光るものにもなるという。
青松輝さんが穴埋めクイズを思いついたのは、短歌の中の一個一個の言葉、ワードというものにポイントを置いている人だからかな、と思いました。第一回ポエム王の動画では、「海」とか「YouTube」という一語に対して、どういうワードを対峙させると、おーポエムだ、となるかという遊びをやっていました。
ちなみに「海」に対しては「手作業」がナイスポエムとなりました。どうしてかって? それは動画を見てください。青松さん自身の「海」に対するワードは「暴行」と「ボリューム」と「火」でした。
短歌というと、音律のある短い詩の中でその音律に乗ってどれだけ情感を込められるか、共感を呼べるかのように思ってしまいますが、そういう流れの中にある詩情ではなくて、限られた数のワード一個一個の対峙の仕方から生まれる詩情というのもある、その見方は面白いと感じました。
コピーライターのヘッドラインの書き方にも通じるような。
さて4. の穴埋めクイズの答えです。
この二つのブランク(A)には同じ言葉が入るんですね。
で、答えは「ホットケーキ」なんですが、えっ、ちょっと待って、答え聞いてもわかりません。
(ホットケーキ)持たせて夫送り出す (ホットケーキ)は涙が拭ける
最初の(A)はまだいいとして、あとの(A)は何???
話してる3人が、わかるわかるみたいに納得してるところも謎で。「ホットケーキは涙が拭ける」 どーして?
「紙とか布とかやわらかいもんだよな、涙ふけるのは」 で、ホットケーキもやわらかいから涙が拭けるって? 溢れたバターとかハチミツとか、ホットケーキの切れ端で拭くよな、涙も拭ける。。。。???
わかった、そりゃ拭けると思う。ホットケーキだって、いろいろなものが拭けるはず。いろいろなものが。あえて書かないけれど。紙で拭けるものなら何だって。
と、青松輝関連の話題はこんなところです。以下は簡単なプロフィール。
青松輝(あおまつ あきら、1998年3月15日 -)は、日本のYouTuber、歌人。
歌集『4』をナナロク社より2023年8月出版。
文學界9月号の短歌特集には、他にも面白い発見がいくつかありました。歌人による短歌評論が数編あり、主に「読み」の側面から短歌が語られています。
乾遥香は「なんでも持ってる わたしはすべて」で、次のように書いていました。
短歌の読みには正解はない、あるのは不正解。昔は書かれたことを文字通り理解し味わってきた、、、、それが短歌だったと。これを言われてしまうと、昔式の書き方、読み方で短歌に触れてきた人たちは当惑するのでは。
つまり一口に短歌といっても、全然ちがう方向のことをしている人々がいて、両者はちがうジャンルの文芸といってもいいくらい、遠く離れた位置から互いを眺めているのかもしれない。
なるほど。そういえば「十三名による大歌会」の中の短歌に、食品サンプルのミートボールスパゲティを取り上げたものがあって、食品サンプルもだけど、ミートボールスパゲティに対する感覚が自分とすごく違っていて驚きました。「雑な食べ物という印象」「キラキラしてる」「肉がでかくてテンション上がる」「値段は高くないけど」「豪華」etc. このあたりの感覚がこの場ではマジョリティみたいでした。うーん、たしかにミートソースだけのイタリアンなスパゲティよりはカツカレーに近いのかもしれませんが。
いやでもネットを見ていたら、イタリアの家庭料理としてミートボールがたっぷり入ったスパゲティ、あるみたいです。わたしのイメージはそっちです。ただ「ミートボールスパゲティ」で検索すると、「アニメみたいな」とか「あこがれの」「カリオストロの城の」というのがゾロゾロ出てくるから、やっぱりそっちがマジョリティっぽいです。
昔の短歌に出てくる「白妙(しろたえ)の」ほどには、ミートボールスパゲティの場合、補完のセオリーとしては1本化できない感じがありますが。人それぞれのコンテクストが多少はありそうだから。いずれにしても口語の短歌には、多かれ少なかれ、「読みの混乱」はあるんだと思います。それが悪いというわけではなくて、面白いという方向に転化するということも含めて。
もう一人、平岡直子氏の「短歌は読み終わらない」から紹介します。
短歌にはこんな風にいろいろな読み方があるようで、そうだな、わたしも多分「一首を読む」というのが向いていそう。歌人を読む、というのもあるかもしれないけれど。気に入った人が出れば。このあたりの「どのように読むか」に選択肢がある、と知るだけでも、短歌へのハードルは低くなる気がします。
なるほど。多数決を意識して言い回しを選ぶ。しかしこれも、属しているカルチャーやコミュニティによってすごく変わってくるので、現代短歌の場合、簡単には言葉を選べない、これなら絶対多数決でOKとは言えないのでは。
というか、ある意味、もうそういうことは不可能かもしれないと思う。その必要もないのかもしれない。日本人なら誰もがわかるといった領域が、どれくらいあるのか。たとえば現代俳句でも、冒頭にあげた「ハチ公」は、そこそこ多数決に叶いそう。でも東京から離れた地域の人には、どれくらいピンとくるかどうか。これを書いた鈴木ジェロニモさん自身、東京に来て、初めてハチ公前に行ってハチ公を見たら、案外小さいんだな、と思ったそうで。「ハチ公前で人と会う」というとき、どこまでがハチ公前の領域なのか、待ち合わせの相手が見つからなかったときそう思ったそうです。
古き良き時代には、季節に関する感覚から風景動植物にいたるまで、日本人であれば、同じ言葉で語り合える共通認識があって、それが俳句や短歌を支えていたとも言えます。
ただそうじゃなければ俳句や短歌は成立しないのか、と言えば、そんなことはなくて、海外の人々が俳句をたくさん書いたり読んだりしているのを見ても、違う世界に住んでいても、一定範囲内では機能するんだと思います。
「白妙(しろたえ)」や「銀(しろがね)」も、そういった多様なカルチャーの中の一つ(one of them)になるんだと思います。
最後にいくつか面白そうな短歌を紹介してシメることにします。こちらは本歌に対しての返歌、というスタイルで書かれたものです。
BRUTUS (2024年5月15日)より