ヴェイユとバガヴァッドギーター〜手遅れなものを追認するための思想
少し前にある本を読んでいたら、筆者がシモーヌ・ヴェイユとの出会いを
「哲学というものに触れてみたいと思った時に、少女の面影のあるこの人物に近づいてみたいと思った」
と語っていた。
ああ、やっぱり俺と同じじゃん。
俺は別にヴェイユから哲学に入ったわけでもないけど、信仰とか孤独とか恩寵とか重力とか、そのようなヴェイユお得意のタームに興味があったわけではなく、命短く死んだ文学少女(のイメージ)がどんなことを考えていたのか、あらゆる言葉、あらゆる行動が夭折フラグそのものだった人物の物語に興味があった。
「何らかの放棄によってあらかじめ人生の十全性を損なうな」
と20代で述べたヴェイユが、晩年(30代)でバガヴァッドギーターに傾倒する。ギーターが述べているのは逆に
「放棄によって人生を十全なものとなせ」
ということだ。ヴェイユはアルジュナへの共感を散々書き残しているけど、一貫してアルジュナの立場を
「選択の余地がない」「そうしないでいることはできない」
としている。選択とは「選んだもの以外を放棄する」ことだ。20代のヴェイユには多くの選択肢があったのだろう。そのすべてのシートをキープしておく事が人生の十全性として見えていたのかも知れない。だが、クル・クシェートラに立ったアルジュナにも、その頃のヴェイユにも進む道はたった一つしか残されていなかった。
いっとき俺はバガヴァッド・ギーターを
『もう後戻りできないアルジュナが、その道(肉親や恩師をぶっ殺しまくる)を迷いなく突き進むために自分で作り出した自己正当化のための幻影』
と解釈していた。だから最後の方でどっちを向いても自分を後押しするヴィシュヌの姿が見えたわけよ。
今でもギーターを信仰や教派性を抜きに読もうとするなら有効な解釈だとは思っているけど、ともあれギーターは『選択』の物語ではない。
『もう手遅れなもの、たったひとつだけ残ったものを追認する』
ための物語だ。俺たちはダルマを選択できないんだよ。だから選択できなかったもの、手遅れだったものの放棄によってしか人生を十全なものとできないんだよ。
それでも俺は、まだ20代のヴェイユと同じところにいると思っている。俺にギーターはまだ早い。あんただってそうだよ。
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