人生の選択

 社会人になって何度目かの就職活動中である。
 就活には毎回苦労してきた。その為、事態を回避するためのあらゆる努力を惜しまなかったのだが、それも虚しく現状に至っている。
 就職試験に失敗した後、何故か私を不採用にしたところが仕事の打診をしてくる。不採用にしておきながら、何故…?と思うが、それは毎回、〝アルバイト〟として採用しようという内容である。
「ご希望には添えませんが、待遇のランクを落としても良ければ採用してあげますよ」
 明確に口にされはしないが、そう言われているような気になる。
「それでも良いから雇ってください!」
 そう言った方が良いのかも知れないが、私には言えない。生活の為にお金は必要だが、「どんな形でもお役に立てるように努めます」と、どうしても言えないのだ。
 自分には価値が無いのかも知れないと思える。必要最低限の安定を手にする値打ちすら無いのだと…。
 今年に入って、アルバイト採用の打診を既に四回断った。そして今日、迷った挙句に五回目の断りを入れようとしている。
 自分は馬鹿だと後で後悔するかも知れない。しかし、承諾してもきっと後悔する気がした。自分を可哀相に思いながら生きて行くのは辛い。したかった仕事だったし、身を置いたことのない環境だった為、するべきだったのかも知れない。新しいことに挑戦する機会も、そこで出会うはずだった誰かと出会う機会も、私は捨てるのかも知れなかった。
 働くつもりでいた。今日、採用の手続きに行くまでは…。しかし何かが違った。
 窓口に赴くと、相手の職員が採用に関するあらゆる書類を携えてやって来た。複数枚の書類に記入するよう求められ、それに従う。その時点で、既に順序が違うような気がしたが、取り敢えず黙って準じた。
 勤務先に自ら連絡を取り、訪問してから業務内容の説明を受けるよう勧められる。それは理解出来るので素直に話を聞いていたのだが、その後の言葉に目が点になった。
「これで採用の手続きは一通り終わりましたので…。後日任用通知をお渡ししますので…。ありがとうございました」
 いや、終わってないだろう!
 
 前年度の末、私は天職からの転職を志し、学校司書の嘱託職員採用試験を受けたのだが、あっさり撃沈した。
 やってみたい仕事だったとはいえ、そもそも経験が無いこともあり、無謀だったと受け入れたのは、ショックから早急に立ち直りたかったからである。
 天職を諦めての転職目的だった為、『やはり司書は私が目指すべき仕事ではなかったのかも知れない』などと考えたりもした。縁が無かったということは、そこが自分の居るべき場所では無いということ…そう思うことが、前途を明るくすると信じた。
 元来後ろ向きで、悪いことをいつまでも引き摺るタイプの私は、これ以上自分が不幸に支配されて、人生の貴重な時間を無駄にするのに耐えられなかった。私は血を吐く思いで、自身を変換したのである。
 長年の有期雇用契約によるストレスからの脱却を目標に、「定年まで働ける事務職」に的を絞る。周囲の励ましを受けながら、正に前しか見ていない状態で求職活動に身を投じていた時、自宅の電話が鳴った。
「以前、学校司書の嘱託試験を受けられましたよね?産休代替の空きが出たんですが、お仕事される気はありませんか?」
 因果応報と言うべきか、棚から牡丹餅と言うべきか…。私は快諾した。
 嘱託職員が一年契約であったというのに応募したのは、たった一年でも安定した待遇保障の下、新しい世界で仕事をしてみたかったからだ。過去にアルバイトと嘱託職員の両方を経験している身としては、その差の大きさを把握している。四月スタートでの一年勤務ではなかったが、中途採用での産休代替でも一年働けるなら充分であった。
 しかし、市役所の職員と何度かの電話連絡を経るうちに、疑念が付き纏うようになる。
 先ず、勤務先の学校を教えてくれない。勤務開始日もハッキリしない。勤務条件も雇用条件も、一切明示されないのである。訊ねても引き伸ばされ、結局、採用手続きの為、市役所に来るよう予定を聞かれた時に初めて、勤務開始日が知らされる。六月の半ばからであった。私はすっきりと月初めから働きたかった為、七月からでも良いかと交渉するが、ダメだと言われた。
「詳細は窓口に来てもらった時に…」と、やはり他のことは教えてもらえず、取り敢えず市役所訪問の日時を決めたのだが、翌日、再び電話が鳴る。
「通勤届に貼るので、自宅から勤務地までの地図を書いて持ってきてください」
 私はまたまた目が点になった。
「勤務先…お伺いしましたが、まだ教えて頂いてないのですが…?」
 そこでようやく、勤務地が知らされる。相手は「あぁ、そうでしたね」と、まるで他人事のようであった。
 採用手続きは、どちらかといえば市役所側の目的だったと言える。勿論私は、その手続きの為に市役所に行ったのだが、その前にすることがあった。勤務条件と雇用条件の確認である。
 これらの条件を伝えられないのは、不採用になった嘱託職員と待遇が同じだからなのかと思っていた。しかし質問のひとつとして雇用形態を訊ねた折、「臨時職員です」と言われたのが引っ掛かっていたのだ。
 インターネットで検索にかけると、市の臨時職員採用に於ける条例を閲覧することが出来た。そこには、臨時職員の給与が〝時間給〟であることが記されていたのである。
 そこで初めて、私の中で嘱託職員のそれと待遇に差があるらしいという疑念が生まれる。私はアルバイトをするつもりはなかった。どうしてもアルバイトとしての仕事しか無いのであれば、それは自らが苦労して手に入れた資格職意外と決めていたのだ。
 資格を手にしているのにアルバイトしか出来ないのは苦しかった。資格職であって現場での仕事内容に大差がなくても、正規職員と臨時職員の待遇の差には大差があった。しかも臨時職員は多くの場で正規職員によって虐げられる。数々の場面でそれを実感していた私は、資格職でのアルバイトには二度と戻るつもりがなかった。どんなに頑張っても、どんなに実績を上げても、どんなに信頼を勝ち得ても未来がない。それに気付いた時、私はそこからの脱却を図ることを決めた上で、その現実を受け入れたのである。
 
 勤務条件と雇用条件が知らされていないことを伝えた時、相手の職員は目を白黒させた。
「えーっと、何を知りたいんでしょうか?」
 質問の意味がわからないのは私の方であった。
 彼は自分が仕事に就く時、何も知らずに応募したというのだろうか。勤務時間、雇用期間、休暇の有無、給与などの待遇…。何も知らずに就職先を決め、雇用されて働き始めたというのだろうか…。
 私は逐一説明しなければならなかったのだが、返って来た答えにあんぐりした。
「勤務条件を書いた紙とか…無いんですよね…」
 そんなことは初めてだった。しかも役所関係でそんなことってあるのか…?
 結局彼は一旦席を外し、30分近くこちらを待たせた挙句、何処からか〝任用申込書〟というものを見つけて来て、半笑いで言った。
「あ~、もう一枚書いてもらう書類ありました。内容を確認した上で意義が無ければそこにサインして下さい」
 任用申込書…そこには給与が時給であることを含め、勤務時間や雇用期間、有給休暇の有無や加入する保険等の内容まで、しっかり記されてあった。詰めが甘すぎるのではないか…。
 私は申込書へのサインを保留にした。詰めが甘すぎるからではない。仕事をしたい人間にとって、そんなものは断る理由にならない。  
 しかし臨時職員が〝時給制のアルバイト〟であることは、私にとって充分な理由になった。しかも任用期間が一ヶ月になっている。一先ず無事出産するまでの期間で、それ以降は育児休暇の所得などに応じて更新されるのであろうが、そんな曖昧な雇われ方では安心出来なかった。
 縁が無かったと諦めたのに、どんな形であれ縁が蘇った…それはある意味、縁があったと言えるのかもしれないが、乗り越えて諦めた分、前向きになれない条件に妥協した上でそこへ立ち返るというのは、何かが違う気がした。
 今、私は前しか向いていない。もしかしたらそれが、後々自分の首を絞めることになるかも知れない。しかし、自らの努力で手に入れた資格を投げ捨ててまで、納得のいく形で働きたいと思っている。覚悟を決めなければならない。
 たとえこの先、何であれ、アルバイトとしての仕事しか無いのだとしても、そこを乗り越えて生きる覚悟が必要だ。
 保育士の仕事も司書の仕事も、もしかしたら今生で、二度と携わることのない仕事かも知れないが、自分の選んだ道である。自分が何になれるのか判らなくても、後悔だけはしないで生きよう。
 私は、結婚と仕事を諦める代わりに、人生を諦めないことにした。

 

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