愛と恋と死と
『年下は何を考えているかわからない』
いつからか、そんな偏見が自分の中に沈むように潜んでいた。
年下といっても、何を考えているのか解らないのは、大人の男性に限る。必ずしも、すべての…というわけではなく、何の抵抗も無く心を開いて話をしてくれるタイプの人には当てはまらない。彼らは、私が決して苦手ではない子どもや年上の男性と大差がないからだ。年齢とは反比例して、ただ純粋に無邪気であるか、心が年齢以上に成長して、立派に大人であるかだから…。
〝年下〟というのには、我が弟も含まれる。昔から仲が良いわけではなかったせいか、弟を『何を考えているかわからない』と思いながら同じ家に暮らして来たせいなのか…、逆にそのせいで、年下=苦手…になってしまったのか、追求すればきりがないが、そんな感じなのである。
しかし、最近時間を空けて片想いした相手は、いずれも年下だった。自ら年下を選んだわけでも、望んだわけでもない。基本的に年上が好きだし、年上との恋愛を望むが、年が年だけに、年上は大体人のもので、下手をすれば年下ですら大半は人のものなのである。
一方的な片想いの相手が一回りも年下だったと知って、大分ショックだった。しかも知ったと同時の大失恋。年齢だけは立派に大人になっているのを自覚しているせいで、自分があまりにも憐れっぽく、情けなくて涙が出た。
子どもとは相性がいいのに、相手が大人だと、途端に上手く行かなくなる。最近、子どもだと思っていた相手が声変わりすると大人しくなり、扱いにくくなるということに気付いた。小学校という場所は、早ければ子どもだと思っていた相手が、ある日を境に大人の雰囲気をぷんぷんさせ始める場所でもあるらしい。六年という成長幅の広さが、子どもを子どもの世界から連れ去って行く。毎日顔を合わせなければ尚更で、いつの間にこんなに大きくなったのかと驚くこともしばしば…。そうなった時、彼らはもう、私と気の合う子どもではなくなっているのだ。
お隣の犬が旅立ち、お別れに行った時、犬への愛だけで生きていける気がした。
最愛の犬であった初めての愛犬と祖父が、きっかり二週間を経て旅立った後、物欲というものがきれいに消えた。何もいらなくなるという感覚は初めてだった。それ以来、自分がどんな風に死ぬのか、常に考えるようになっている。
生き急いでいる?死を待っている?成し遂げたものは何?この先、私が誰かと繋がって生きていく未来の存在はあるのか?
その後、短期の間に必要の無い紆余曲折を幾つも辿り、やがて前向きに生きるようになった。
前しか見なくなったのに、希望を見つめることが出来ない。結局後ろ向きのままなのだろうか…とも思う。
これから誰かと出逢い、真実の恋をして実らせる未来があるのかなど、まるで想像出来ないし、過去の事例を挙げると、とても現実的だとも思えない。
年の差に驚愕して勝手に失恋しておきながら、だらだら片想いを続けていたが、子どもの「先生、彼女とラブラブ?」という冷やかしに対し、無言で微笑み返した彼を見て、再びハートブレイク。人は死んだ後、現世に生きる残された人々に忘れ去られたら、再び死ぬのだというが、今回の件で私の心は二度死んだ。
母とつまらない喧嘩をしたのと同時期に二度失恋し、心が折れて呆然としていた矢先、6年生が運動会で演じる組み立て体操のお披露目を見て心が揺さぶられる。子どもを産んだことはないが、ピラミッドの一番下になっている子たちの親の気持ちになって、涙が止まらなくなった。
前向き生活はとても良いが、何だか自分が頗る単純な大人になってきているようで、ちょっと情けなくなる。
はーーーっ。帰ったら、また無視されるんだろうな…。今は帰宅が憂鬱だ。