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人がおいしそうに食べているのを見るのが好きだ
とはいうものの、私は料理人ではないし、ましてや飲食業で働いたこともないんだけれど。
恋人にお付き合いを申し込もうと思った決め手は、いくつもあるけれど、「私の作ったご飯を美味しく食べてくれる」というのがとても大きい。そんなの当たり前だと思った人に言っておくけれど、あなたとても恵まれてるよ。
過去の話をすると、恋人が眉毛を書かれた犬のような顔をするのでなるべく避けたいけれど、私のかつての恋人は、私の作った料理に、端から端までケチをつけた。「おいしい」という言葉を聞いたことがない。「ここはこうした方がー」なんて聞いてもないアドバイスをして、しまいには残す。食え。出されたものは全て食え。
「全力で作った、やり遂げた、これが最終形態だ」というものに対して、次回の改善点を述べるのは、成長を促しているようで、妨げていると思う。まずは褒めて、まだ本人に余力があると見抜いた時に、それをするべきだ。彼には教育的視点で、他者を認める力が備わってないと思う。今ばりばり教師をしているけれども。名誉のため、子ども以外に応用するのが下手と言っとこう。
私の母の、旦那に対する愚痴も、3回に1回は「私のことは褒めてくれないから」だった。
母の旦那、つまり私の父は、自分の作ったものや、私の作ったもの、更には買ってきたものには、即座に「おいしい!」と反応する。しかし、毎日食べているはずの妻の手料理への反応が著しく欠けている。母の手料理は、私が作るよりずっと美味しい。お世辞なんかじゃなく、当たり前に私の味覚を形成したのが母の手料理であり、外食をたくさんしたって、自分のお金で少し値の張るものを買って食べたって、母の料理は美味しいのだ。しかし、父は褒めない。
でも娘には分かる。あれは、美味しいと思って食べている。言葉に出すという行為が、夫婦生活、長い年月をかけて段々と衰退しただけで、“当たり前に美味しい”と思って食べている。言葉にしないということが、どれだけの弊害を及ぼすのか、父は気付かずに無言の“おいしい”を繰り返しているのだ。私は、父の分も補うかのように、母の手料理を食べる時、心の底からの“おいしい”を言葉で伝えるようにしている。
そんなこんなで「手料理を食べた時のリアクション」の壁がとてつもなく高くなっている私に対して、恋人はやすやすと乗り越えてみせた。まず、美味しくないと言われたことは無いし、食べる時は目を閉じて、大袈裟なくらい美味しいを伝えてくれる。何を使って作ったのか聞いてくれたり、美味しい以外にも、「天才」「結婚しよう」「毎日美味しいものが食べれて幸せだなぁ」など多彩な言葉で褒めたててくれる。ちょっと失敗したと伝えたら、すぐに「大丈夫だよ、おいしいよ」と慰めてくれるし、残さない。むしろ私の分まで食べてくれる。それは、付き合う前から変わらない、彼の大好きなところだし、これからも変わらないで欲しいと思う。
だから私は毎日、彼のご飯を作って、彼とご飯を食べるのが幸せでたまらない。逆に、1人で食べるご飯がつまらない。そう、だからよ。夜勤で彼が居ないから。テキトーに作ったハイカロリーマヨ明太のせトーストをこんな時間に食べたことを、言い訳するためにこんな記事を書いてしまったんだ。明日は何を作ろうか。明日も美味しいって言ってね。