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平和を願うなんて、当然のことが、当然ではないのは。

小学4年の娘が言った。

「核戦争をしないために核を持つ」って、どういう意味?全然わからない、と。

昨年、初めて長崎を訪れた。

平和記念像の右手は真っ直ぐに青空を差していて、その指の示す方向に、8月9日の空を思わずにはいられなかった。

原爆資料館で、犠牲者の写真や映像を見た。

人やモノが飴のように溶けていた。恐かった。こんなのダメだ。娘は幼心に、そう感じたようだ。「核戦争を起こさないために、核を失くそう」なら、彼女もすんなり受け入れただろう。

ところが、旅行から戻ってきて、流れているニュースを見ると、「戦争を起こさないために核武装する」「平和を守るため、アメリカの核の傘に守ってもらう」なんて話が、まことしやかに議論されている。

戦争はしたくない。
人が死ぬのは怖いし、悲しい。
原爆だって、二度と誰の上にも落ちて欲しくない。

こんな、子供でも解るようなことが、どうしてこれ程複雑になってしまったのだろう、と思う。

「核をなくしたいなら、『せーの』で皆で捨てればいいじゃん。どうしてそれができないの?」

娘が聞いてくる。
どう答えればいいのだろう。
「皆、他の国のことが信じられないからだよ」とでも?

子供たちの目に映っているように、世界がシンプルであったらいいのに、と思う。

平和はだいじ。
人が殺し合うなんて、ダメ。
人を殺すための兵器なんて、いらない。

そんな単純な、皆が皆そうだと頷くようなことなのに、「でも実際は…」とあとに続くようになってしまった。

なってしまった、というよりは、人間の世界は、ずっとそうだったのかもしれない。科学の発展や社会の成熟に合わせて、より効率的で威力のある兵器が生まれ、条約や同盟で、より複雑に理論武装できるようになっただけで。

娘も、成長につれて社会の仕組みを知り、いつか、「戦争にはいい戦争と悪い戦争がある」などど言い出すのだろうか。

この子の純粋さが失われてしまうことを、心底怖いと思った。

不確かな未来のために、今、私たちができることはなんだろうと考える。

体裁や建前を取り払って、平和でありたい、と願うこと。
そして毎年夏が来る度、遠いあの日に思いを馳せ、自分の立ち位置や信念を確認すること。
話すこと、例え自らが経験していなくても、忘れないこと。

平和を願うなんて、当たり前のことが当たり前であるように。大それたことはできなくても、それぞれが思うだけで何かが変わると信じて、そう、心に刻みたい。





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