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この生温い世界で(笑)


「チッ。が入った」
 舌打ちをする男の声が聞こえた。
「ガ? 蛾がどうしたのよ」
 女のイライラした声が続く。
「蛾だよ。100g 1,500円もしたコーヒー豆なのに、小さな蛾が浮いてる」
 あぁ、この生温い液体はやっぱりコーヒーか、蛾はため息をついた。羽を必死に動かして、液体の中から飛び立とうとしながら、カップの中身が熱々じゃなくて良かった、冷めかけたコーヒーで助かった、と思った。
「さっさと飲まないからよ」
 女の声には、ざまぁみろと言うような冷たい息が含まれている。
「お前がぎゃあぎゃあ怒って、俺のコーヒータイム、邪魔するからだよ」
「邪魔って何よ。話し合いでしょ。今後のことの」
「楽しみにしていた100g 1,500円のスペシャリティコーヒーなのに。蛾の野郎」
「1,500円、1,500円って、ほんとにケチなうるさい男ね」
 なるほど、高級なコーヒー豆。だから果実感のある甘い香りがした。その香りに誘われて、カップの縁に止まってしまったんだ。蛾は己の行動を後悔しながら、もがき苦しみ、コーヒーの海を漂い、カップの側面に脚を伸ばした。
「蛾も一緒に飲んじゃえば? あんた、夜のちょうだって食べるんだから、蛾だって平気でしょ」
「はぁ? だから、夜の蝶は食ってないって。あの女は、ただの友達」
 白いコーヒカップの側面に蛾の脚が届いた。少し濡れてしまった羽が重い。もうひと息だ。もう一度、飛びたい。カップの側面はつるつると滑った。
「飲みなさいよ。その蛾も一緒に」
「えっ?」
 えっ? 男の声と蛾の声が重なる。
「その小さな蛾と一緒に、そのコーヒー飲み干したら、許してあげるわ」
「はぁ?」
 はぁ? そんな、馬鹿な。なぜ私が犠牲に。蛾は羽をバタバタさせ、抗議の鱗粉をコーヒーにばら撒いた。
「飲んだら、もう一度だけ、許してあげる」
「許してくれるのか」
 許すな! 蛾は叫んだ。仮にこの男が、私入りの超スペシャルなコーヒーを飲み干したとしても、そんな生温い罰では、また夜の蝶でもなんでも食べますって。また浮気しまくりですって。蛾は声を上げたが、愚かな人間の耳には届かない。
 蛾は必死でコーヒーカップの縁にしがみついた。見上げると、男と目が合った。 
 男は睨みつけるようにコーヒーを、いや、蛾を見ている。蛾も、男を睨みつけた。
 生温かったコーヒーは、もう冷たい。


⭐︎2023.10 新作 
965文字!みじかっ!
 


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