飛行日和
「春と風、良い季節になりましたな。特に今日の風はいい感じだ。風向きも良い」
「木村さん、本当にそうですね。春、そして風。なんだか桜色の花びらに乗ってどこまでも飛んでいけそうですね」
「長谷川さんは、随分とロマンチックなことを言いますなぁ」
「うふふ、今日みたいな日は、本当に飛行日和ですよね」
木村さんと長谷川さんは、草の上にぺたんと座り、空を見上げながら話している。
僕はその横で、飼い猫のスカーレットを膝にのせ、二人の話を聞いている。
一瞬、風が強く吹いた。桜なのか、薄いピンク色の花びらが頭上をふわぁと飛んでいった。僕は花びらを目で追う。
あぁ、本当に、今日は気持ちの良い日だ。
「木村さん、長谷川さん、そろそろ春の宴会の計画を立てたいのですが、ご予定はいかがですか」
自治会長さんがせかせかとした歩き方で近づいてきた。手には手帳とペンを持っている。
「今日は、東京の息子に会いに行こうと思うんですわ。わしは、来週ならいつでも良いです」
木村さんが言うと、長谷川さんが頷いた。
「私は、来月、大阪に引っ越しますからね。今月中なら、いつでも」
引っ越し? 僕は驚いて、長谷川さんの顔を見た。
「引っ越しするんですか?」
「そうよ。大阪に住む一人娘がね、なかなかこっちまで帰ってこれないから、私が大阪に行くことになったのよ」
「えぇー、さみしい」
僕が言うと、膝の上でスカーレットも悲しげにニャアと鳴いた。
「大丈夫よ、また会いに来るから。光くんもスカーレットも良い子ね」
長谷川さんは目を細めてそう言って、スカーレットの頭を撫でた。
「では、長谷川さんの送別会もかねて、来週、春の宴会をしましょう。来週の水曜日で、よろしいですね」
自治会長さんは手帳に何かを書き込むと、他の人にもお知らせしてきます、と草の広場の周りに建てられた墓石を、ひとつひとつノックし始めた。
名前が彫られた灰色の墓石を、コンコン、コンコンと自治会長さんはノックする。
「来週の水曜日、春の宴会を行います。参加されますか?」
静かな墓地に自治会長さんの声が響く。
「じゃあ、わしは、そろそろ息子のいる東京に行ってきます」
木村さんはそう言うと、するっと消えて、風にのって飛んでいった。
つづいて、近くの墓から出てきた女の子が、私もママのとこに行ってくる、とはずむようにぽんっと消えて、風にのって飛んでいった。
あっちのお墓から、こっちのお墓から、今日は飛行日和だからか、次々と人が風にのっていく。
薄ピンク色の花びらが、風にのった人々のあとにつづいて飛んでいく。
「大阪のお墓って、マンションみたいにね、沢山の人の、お骨の部屋があるらしいのよ。時代よねぇ。私ね、一度くらいは都会の空気を吸ってみたかったから、お引っ越しすること、ちょっとわくわくしてるのよ」
長谷川さんが、空を見上げて言う。
僕は長谷川さんの横顔を見ながら、初めてここに来た日のことを思い出した。
家猫のスカーレットが脱走してしまったので、僕は探し歩いていた。スカーレットと名前を呼びながら、家の裏にある丘を登っていた。
丘の天辺。そこから賑やかな声が聞こえてきたから、声のする方へ行ってみた。
コンクリートと石、灰色の墓地。その中央の緑の草が生えた広場で、沢山の人がお酒を飲みながら談笑していた。踊っている人もいた。
そのそばで、スカーレットがちょこんと座って、彼らを見ていた。
あぁ、死者の宴だ。僕と同じで、スカーレットにも見えるんだ。死者が見えるんだ。
僕が近づいて行くと、人々は驚いた顔をして動きを止めた。一瞬の静寂。僕はお辞儀をして、スカーレットを抱き上げた。
彼らも僕に軽く頭を下げ、微笑み、また賑やかな宴会を続けた。伊藤さんも長谷川さんも自治会長さんも、そこにいた。
それから、僕とスカーレットは、ときどきここに来て、お墓の住人たちと交友している。
「気持ちの良い季節になったわね。光くんのお母さんも、そろそろ来るかしら」
長谷川さんがのんびりと言った。
僕は今月中学を卒業する。飛行機だと二時間かかる場所のお墓の中にいる母も、祝福しに来てくれるだろう。
「宴会参加者は十三人です。光くんとスカーレットも来ますか?」
手帳とペンを持った、墓地の自治会長さんが戻ってきて、僕に訊く。
「その日は学校の美術部の送別会があるんです。僕は、ほとんど顔を出してない幽霊部員だったのですけどね」
「幽霊部員!」
自治会長さんと長谷川さんが顔を見合わせて、まるで私たちみたいね、と笑う。
二人の笑い声は、慈しみ、いつくしみ、という色をしていると、美術部員の僕は思う。
薄ピンク色の花びらが、線香の匂いがかすかにする風にのって舞っている。
あー、本日は、晴天なり。
あー、本日は、飛行日和なり。