ヘビイチゴ
「ヘビイチゴって、知ってます?」
金曜日午後10時のバー。カウンター席で隣に座っていた女に、突然訊かれた。
週に三日はこの店に来ているが、見たことのない女だった。もし会ったことがあれば、決して忘れるはずのないような人目を引く顔をしている。左右の目がアンバランスで唇が厚い、どこか危うい雰囲気の顔をした女だった。
女は僕の右隣に座り、呆けたような顔でカウンター正面に並んでいる酒のボトルを眺めながら、カクテルを飲んでいた。ロンググラスに入った赤いカクテル。
そして、ボトルの背後にある鏡の中で、僕と視線が交差した直後に、そう言ったのだ。
「ヘビイチゴって、知ってます?」
もう一度、女は繰り返し、僕に顔を向けた。右目の下に小さなホクロがあった。
「知ってる。食べたことはないけど」
僕は頷いて、そう応えた。
「小さな赤い実。毒イチゴって呼ぶ人もいるけど、毒はないんですよ。可哀想ですよね。毒がないのに、毒イチゴなんて言われて」
女はグラスの縁を、薬指の先でそっと撫でていた。何度もグラスの縁をそっと撫でる。いやに艶めかしい指の動きだった。
「私が小さい頃は、そこら中にヘビイチゴが生えてました。雑草だから生命力も強いのでしょうね」
ゆっくりと話す声は少し擦れていて、言葉がため息で包まれているみたいだった。
「無毒だから食べても大丈夫だけど。食べるには、勇気がちょっと必要かも」
そう言ってくすりと笑い、挑発的な目で僕を見た。
「私は、ヘビイチゴなんです」
とっておきの秘密を教えるように、ささやく。
僕は、女の言葉の意味をしばらく黙ったまま考えた。口を開こうとしたとき、女がまた話し出した。
「昔は普通の真っ赤なイチゴでした、真っ白な生クリームの上に、そっとのせるだけで華やかさを演出できる。私は、そんな存在でした」
僕は女の左の耳たぶにもあるホクロに気づいた。首の左側にも2つ。白い肌。
「いや、今でも十分華やかだと思うけど」
思ったままを口に出した。
女はホクロのある耳たぶを左手で触りながら、首を傾げる。
「そう?」
「なぜ、あなたがヘビイチゴなの?」
僕は話しを続けたくて、訊いた。
バーテンダーを呼び、女のために同じカクテル、自分のためにブランデーのロックを頼んだ。女は飲み物を贈られることに慣れているようで、お礼すら言わなかった。
「私、濡れ衣を着せられたことがあるんです」
「濡れ衣?」
「ある会社で働いているときに、部長と私が不倫の関係にあるという怪文書が配られたのです。全くの無関係なのに。でも噂が噂を呼んで、毒女扱いを受けて、会社を辞めました」
「それが、毒がないのに毒イチゴ。つまり、あなたがヘビイチゴだと言う理由?」
話にすっかり引き込まれて、そう尋ねた。
「そうです。そして、雑草だから強いの」
女は肩をすくめた。
「その部長とは、どうなった?」
「もともと全く関係のない人だったから、私とは何もありません。でも、あの怪文書のせいで、私は退職して部長は離婚しました」
バーのあちらこちらでささやき合う人々の声が、蜜蜂の羽音のように聞こえる。ジャズのピアノ曲に羽音が重なる。
「ほう。でも、全く関係がないのに、なぜ、そんな怪文書が出回ったのだろう?」
女は僕の方に身を乗り出し、僕の太腿に手を置いた。掌の温もりが、太腿からその周辺に広がり始める。
「私もそれが知りたくて、どうしても知りたくて、調べました。そしてね、最近いろいろな事実が分かったの」
僕は、また自分と女の飲み物のお代わりを頼み「で?」と話を促した。少し酔ったのか、女の目の周りはうっすらと赤い。
女は、僕の目を見て言った。
「部長の奥さんだったんです」
「奥さん? 怪文書を作ったのが、その部長の奥さんってこと? なんで?」
女は薄く笑った。
「あの頃、部長の奥さんこそ、ある独身の会社経営者と不倫をしていたのです。それでどうしても離婚したかった。でも部長にはこれと言った欠点がない。離婚理由がない。たぶん離婚もしてくれない。離婚するのに時間がかかる。だからね」
「だから、自分の夫とあなたが不倫しているという怪文書を作ったって言うの?」
女はうなずいた。
「奥さん、私の元先輩社員でした。出世頭の部長を射止めて退社したのだけど、一緒に働いているときから私を嫌っていました。ケーキの上を飾る派手なイチゴの私なら、部長の架空の不倫相手として最適とでも思ったのでしょうね」
女はうつむいて顔をしかめた。
「事実、奥さんの元同僚、女性社員たちからの、私への攻撃は凄まじかった。何もしていないのに責められていじめられた私は精神的に病んで、会社を辞めました。すると、それが関係を認めた証拠のようになって、部長も責められたそうです。部長は疲れ果てて離婚したという噂です」
しばらく、二人で黙って酒を飲んだ。
僕は、聞いた話を酔い始めた頭で考えた。話の奥は、途中から見えてきた。
「で、真相を知ったあなたは、どうするの?」
「復讐です」
女の手が、僕の太腿の上から大胆に動き始めた。敏感な部分周辺を執拗に撫でる。
「あなたの奥さん、あなたに心底夢中ですよね。奥さんの一番大切なものは、あなた」
僕の耳元に顔を寄せ、ささやく。
「私を、自分の夫の愛人にしたかった。寝て欲しかった」
女の息が耳をくすぐる。
「その願いを、今、叶えてあげようと思って」
僕は、自分が飲み込んだ唾の音を耳の奥で聞いた。ヘビイチゴは本当に無毒なのか?
……すぐに離婚するからあなたと結婚できるわ。
二年前、僕の妻はそう言った。つまり、この女の言う『部長の奥さん』は僕の妻なのだ。
なるほどね。少しだけ残っていた冷めた部分で考える。ヘビイチゴの茎が地面を這って広がるのを感じる。
「復讐に僕を使って、妻を狂わせたいのか?」
僕の低い声はアルコールにまみれている。
「大丈夫よ。あなたも狂わせてあげるから」
女は毒にまみれた声で笑った。
女はバーカウンターの板に右頬をつけるようにして、下から僕の顔を覗き込んだ。
「ヘビイチゴ、食べてみます?」
女の目にシーリングライトが映り、赤く揺れている。瞳の奥でヘビイチゴが揺れている。
いや、揺れているのは、たぶん僕。