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村上春樹『職業としての小説家』からクリエイターのありかたを考察する

村上春樹氏が、小説家について書いた本。
自分のありようと小説家としての成立過程を語っている。
小説家にとってはもちろんですが、少し範囲を広げてなんらかのクリエイションをする人にとっても参考になる言葉が散りばめられていました。

少し引用してみます。


小説家(クリエイター)の資質

僕は思うのですが、小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作業ではないようです(中略)
小説を書くーあるいは物語を書くーという行為は、かなりのロー・ギアで行われる作業だからです。
小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。

職業としての小説家

よくまわりの人々やものごとをささっとコンパクトに分析し(中略)明確な結論を短時間のうちに出す人がいますが、こういう人は(中略)あまり小説家には向いていません。

職業としての小説家

多くの場合、作家の本能や直観は、論理性の中からではなく、決意の中からより有効に引き出されます。

職業としての小説家

おそらくジャズの演奏も、小説と同じく泥臭い領域の創作作業。
キレキレの頭脳や論理性は創作に絶対必要なものではない。
実践ならではの「鈍さ」が必要とされる。

じゃあその資格があるかどうか、それを見分けるにはどうすればいいか?答えはただひとつ、実際に水に放り込んでみて、浮かぶか沈むかで見定めるしかありません。

職業としての小説家

やってみないと、向いているかどうかはわからないらしい。
逆にいうと、どんどんやってみたらいいんだと思う。

きっかけ

幸運というのは、言うなればただの入場券のようなものです。(中略)いったん手に入れたらあとはもうオーケー、左うちわで安逸に人生を送れるというものではありません。

職業としての小説家

英語にエピファニーという言葉があります。日本語に訳せば「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」(中略)平たくいえば「或る日突然なにかが目の前にさっと現れて、それによって物事の様相が一変してしまう」という感じです。

職業としての小説家

書かねばならない必然は作家の必要条件ではなく、そこにはきっかけがある、それを必然ととるか偶然ととるかはわからないが。もちろんそれに伴う資質とか能力は必要条件として。

必然性は、そこまで必須なものではない。

「書くべきことをもちあわせていない」というのは、言い換えれば「なんだって自由に書ける」ということを意味するからです。

職業としての小説家

生活と創作

作家に対してそういう「反俗的な理想像」を求めておられるみなさん(中略)、肉体的に節制をすることは、作家であり続けるために不可欠なことなのです。

職業としての小説家

人が小説を書こうとする場所はすべて密室であり、ポータブルな書斎なのです。僕が言いたいのは、要するにそういうことです。

職業としての小説家

時間を自分の味方につけるには、ある程度自分の意志で時間をコントロールできるようにならなくてはいけない、というのが自分の持論です。

職業としての小説家

プレイヤーであり続けるためには、スケジューリングを自分で行い、コツコツと創作を行いましょう。

着想

「着想を記録するノートを持ち歩いておられますか?」(中略)
「ああ、その必要はありません。着想をえることは滅多にないですから」
(中略)
本当に大事なことって、一度頭に入れてしまったら、そんなに簡単には忘れないものです。

職業としての小説家

「自分に何かを加算してゆく」よりは「自分から何かをマイナスしてゆく」という作業が必要とされるみたいです。

職業としての小説家

オリジナリティーというのは、それが実際に生きて移動しているときには、なかなか形を未定めがたいものなのです。

職業としての小説家

創作と評価

ひとつ身に沁みた教訓があります。それは「何をどのように書いたところで、結局はどこかで悪く言われるんだ」ということです。

職業としての小説家

もちろん、自分が楽しめれば、結果的にそれが芸術作品として優れているということにはなりません。言うまでもなく、そこには峻烈な自己相対化作業が必要とされます。最低限の支持者を獲得することもプロとしての必須条件になります。(中略)あとは、「自分が楽しめる」「自分が納得できる」というのが何より大事な目安になってくる(後略)

職業としての小説家

あれだけの大作家が「悪口は気にするな」と言っているのだから安心しますよね、皆さん。(まあ村上春樹ほどデビュー当時ボロクソだった作家も珍しいとは思うが)

時代・社会と創作

僕の小説に対するアジア諸国の読者の反応と、欧米諸国の読者の反応の間に、少なからぬ相違が見受けられるのも、また確かです。それは『ランドスライド』に対する認識や対応性の相違に帰するところが大きいのではないかと思います。

職業としての小説家

僕自身が意識している以上に、僕の小説の中のキャラクターは、作者である僕をせき立て、励まし、背中を押して前にすすめてくれているのかもしれません(中略)ある意味においては、小説家は小説を創作しているのと同時に、小説によって自らをある部分創作されているのだということです。

職業としての小説家

現実社会のリアリティーと物語のリアリティーは、人の魂のなかで(あるいは無意識の中で)避けがたく通底しているものなのです。どのような時代にあっても、大きな事件が起こって社会のリアリティーが大きくシフトするとき、それは物語のリアリティーを、いわば裏打ちのように要求します。

職業としての小説家

その他

エッセイと小説とで同じネタを使ったって、別にかまわないんですが、そういうバッティングみたいなことがあると、小説が不思議に痩せてくるみたいです。

職業としての小説家

あらゆる創作行為には多かれ少なかれ、自らを補正しようという意図が含まれているからです。

職業としての小説家

まとめ

  • クリエイターに必要なのは知力や創造力だけではない。むしろ知に立ちすぎる人はクリエイションに向いていない。クリエイションはもっと泥臭い作業で、たゆまぬ習慣化が必要。そのためには体力も必要。

  • 悪く言われても気にしない。結局自分が納得する水準に達しているかどうかが、長く創作を行うためには必要ではないか。

  • オリジナリティーについて気にしすぎてもしょうがない。足し算よりも引き算の要素が強いのではないか。







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半熟ドクター
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